「風」の日めくり

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2006年12月31日(日)
打ちのめされるようなすごい本

 今年も残り僅かとなった。正月を迎える準備も家内の方はまだ沢山あるようだが、私の方は松飾もつけ終わり、一段落したところで散歩に出た。風は冷たいが、近所の遊水地公園の上には雲ひとつ無い空が広がっている。川の土手をいろんな人が歩いたり走ったりしている。
 私も40分ほど歩いて家に帰り、郵便受けを見ると古本がどっさり届いていた。

米原万里の読書と世界観
 このところ、今年5月に逝去したロシア語通訳で作家の米原万里が書いた書評集「打ちのめされるようなすごい本」を読んで来た。
 彼女の書評は2001年から始まっているが、その中に出てくる、これはと思う本を、まずは古本の検索注文サイトの「スーパー源氏」で調べて15冊ほど注文した。いずれも彼女が書評の中で「打ちのめされるようなすごい本」と褒めていた本である。

 この何年かに彼女がブッシュの始めたイラク戦争や小泉改革について書いたことは実に辛らつだ。しかし、その的確な指摘はこの本を読むと実に豊富で深い読書に裏付けられていることが分かる。
 逆に言えば、このような古今東西の歴史、文化についての幅広い読書で育まれた歴史観や世界観がなければ、とても今現在起きていることの評価などはできないと言うことだろう。

 今世界の潮流は、「市場の自由化」や「テロとの戦い」などといった主にアメリカの唱える名分で作られている。同時にそれは、日本でも市場原理主義、企業の国際競争力の強化、行政の効率化、あるいは保守回帰などの動きを生み出して来た。
 しかし彼女の本を読むと、これらの動きも目先の現象だけでなく、もっと世界の文化や、歴史という幅広い観点から見ていかなければならないことを教えられる。

日本の市民にとって大事なテーマ
 ところで、この半年は身辺何かと忙しく、思うようなコラムも書けずに「風の日めくり」でお茶を濁してきた。しかし、
「市民の立場で 時代の風を読み 生き方を考える」をテーマに掲げている身としては、せめて一月中に「年頭コラム」の一つでも書きたいと思っている。
 今の閉塞感漂う世界状況の中で、私たちが未来に希望が持てるとすれば、それはどんなことなのか。さし当たって、日本の市民にとって大事なテーマとしては次の5つをあげてみたい。

@地球温暖化を少しでも先に延ばすための循環型社会の模索
A日本を戦争に向かわせないために・庶民レベルの精神のグローバル化
B日本人の精神的、環境的バックグラウンドとなる田舎・地域の再生
C日本文化の原点としての江戸文化の再発見
その上で何より大事なテーマは、
D平和の維持、戦争の芽を摘み取ること、になるだろうと思う。

 これらを取り上げるコラムの内容が空疎にならないように、この正月は(時々散歩もしながら)届いた本を読みつつ、せめて彼女の爪の垢でも煎じて飲むことにしようと思う。

2006年12月24日(日)
一年の終りに

もうすぐ大晦日。近所のお寺にお歳暮を持って行きながら、正月に頂く「お札」の予約をしてきた。毎年元旦には家族で寺の本堂に座り、天井近くまで達する護摩の火で清められたお札を頂いてくる。
小さな寺だが、戦国末期からの長い歴史を持つ寺には、あわただしい世相とはまた違った悠々とした時間が流れているようで毎日そばを通るだけでほっとする。特に境内にそびえる樹高20メートルにもなるかというような松の巨木を見上げると、「この木は何百年もこのあたりの移り変わりを眺めてきたんだろうなあ」とちょっと呆然となる。

「朝の集い」
毎月第3日曜日、寺では朝6時(12月から2月までの3ヶ月は30分遅く)から
「朝の集い」という会が開かれている。誰でも無料で参加できる。
20人ほどが本堂に並んで座り、真言宗の作法に則ってお勤めを進める住職と共にお経を上げる。
懺悔文に始まり、観音経や般若心経など一連のお経を唱えた後、住職の法話を聞く。多くは弘法大師やお釈迦様の言葉だが、その他様々な出典のものもプリントにして易しく解説してくれる。

法話のあとは本堂のあちこちに散らばって座禅を組む。夏の朝は鳥の声が聞こえてすがすがしいが、冬は寒い。終わると座敷に移っておかゆを頂く。
比較的若い方の私は箸を並べ、おかゆと味噌汁の配膳を手伝う。食前と食後には皆で「感謝の言葉」を唱和する。

四国八十八箇所めぐり
食べ終わると、そのまま帰ることもあるが大抵は参加者の誰かが2,30分で何らかの話をしてくれる。老弁護士が最近手がけた事例を解説したり、尺八の演奏があったり、書道の先生が高名な書家の墨蹟を解説したり。

今月は、あるお年寄りがこの秋、4回目の四国八十八箇所めぐりを達成した話をしてくれた。

彼が札所めぐりを始めたのは奥さんの7回忌からだそうだ。今回は寝袋をもって山門や山中に野宿したり、遠いところはJRを利用したりして、一月かけて回った。
札所巡りの間に様々な人たちから受けた「御接待」の心温まるエピソードをまじえながら、巡礼を重ねるたびにお大師さんが近くなる気がすると話していた。
5回目からは印を押す札が赤いお札になるそうで、是非5回目にも挑戦したいという。

時の流れと死
彼がこの「朝の集い」に参加しだしてからもう30年になるというが、私の方はまだ7年だ。この会は高齢者が多く、この数年間にも顔見知りの人たちが何人も亡くなっている。そういう意味では人間誰をも容赦なく押し流していく時間というものの非情を感じる。


私なども、自分の死について、普段はまだ先のことのように思っているが、考えてみればこの一年でまた確実に一歩、死に近づいているわけだ。
本当は、一年一年がだんだん貴重になっているのに、それを充分意識する間もなくあわただしく一年が過ぎてしまう。凡人の証拠だろう。


     「正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」(一休宗純)

2006年12月10日(日)
絵?の7作目

今回は、「絵?NO.7」がどういうプロセスを経て描かれたかを書いておきたい。何しろ、最近は一枚の絵を仕上げるのにいろいろ考えることが多く、前より随分と時間がかかるようになった。今回も描き始めてからアップするまで10日、延べ8時間ぐらいはかかったと思う。
それが抽象画に特有のことなのか、あるいは単なる未熟さゆえのことなのか、ちょっと確かめておきたいのだ。

気の向くまま描くと
最初は、手が動くまま鉛筆でめちゃくちゃな線を沢山引きながら(最近は決まったパターンにならないようにできるだけ自由に線を引く)、その中から何らかのイメージが見えてくるのを待つ。
そうして少しでも全体イメージのようなものが感じられたらそこで鉛筆を置く。しかし、それはまだ漠然としていて、言葉で表現するほどの具体的な意味は持っていない。


次に沢山の線の中から、適当な形を選んで思いついた色の絵の具をざっくりと乗せていく。その時、頭の中は塗った形が何らかのイメージにつながらないか忙しく探査しているのだが、たいていの場合は手の方が早く動いてしまって見つからないままどんどん進行してしまう。すると、当然のことながらばらばらな形の寄せ集めになって、収拾がつかなくなっていく。

今回は、どうしようもなくなった時点で23日、立ち止まって考えてみた。
そして、とりとめのない図形をまとめるために背後に地球のような半円を描くことを思いついた。

半円の上に山らしきものを描き、さらにバランスを考えて、右下に尖った人工物を示す三角形を描く。これがNO.7の出発点となった。(右図)

イメージの膨らまし作業
この出発点から、最後の絵がまとまるまでは、この段階からのいわば「イメージの膨らまし作業」と言えるかもしれない。
地球に見立てた半円に層を描き、虹とのダブルイメージを持たせたら、虹の下は空になった。その半円の空に茜色のグラデーションをつける。すると空に広がりが出てきて、その広がりをさらに強調したいと思い始めた。その方法が見つかるまでまた2,3日休む。

半円の空を広く見せるためには、グラデーションをもっときつくすると同時に、前面の邪魔な形を整理すればいいのでは?
そこで、いったん塗ったものを白で塗りつぶし、空と同じ色にして空を広くする。(整理しすぎると、普通の「山と空の絵」になってしまうので気をつける。)

後は細部だ。半円の外の山に遠近をつけるために遠くの山を青く塗る。枯れ木のようなものと青い有機体にそれらしく陰影をつける。右下の山に緑のグラデーションをつける。などなど。

自己満足のプロセス
こうしながらも、この絵は最後までなかなか腑に落ちない。
「これは何を描いた絵なのだろうか?」絵にピリオドを打つには、絵の中の様々な要素が(画家がタイトルにつけるような)ある一つの思い(イメージ)に収斂することが必要らしい。

最後に、青い有機体を右上の画面の外まではみ出させて見て、やっと自分なりに納得した。虹(地球)の上にある山々。半円の中に広がる茜空と山の遠景。その遠景をさえぎるようにして前面に手を伸ばす樹木のような形たち。
言うほど具象的なものではないが、その集合体は、まあ強いてタイトルをつければ「幾つかの異空間の重層的共存」とでもいうのだろうか。

私の場合、まだ描き始めて7作目。こんなプロセスだから、最後にどんな絵になるのか全く予測できない。
しかも、一口に抽象画というが、そのプロセスはだんだんと複雑になってきて、次はもっと時間がかかりそうな予感さえする。

そうなると、次に進むには、少しでも自己満足(納得)が必要になるわけで、(ちょっと考えすぎかもしれないが)あえて言葉にしたこの文章もその確認作業といえば言える

それにしてもこんな遊びのお陰で、一つの絵の裏には画家たちの実に様々な思考のプロセスが隠されているということが何となく分かってきたのは一つの収穫かも。

息子からのメール
そんなことを知ってか知らずか、デザイナーの息子からこんなメールが来た。
「今回はちょっと植物っぽい有機的な部分が入っているね。構図が今まで見たこと無いぐらい秀逸だと思います。」
美大時代に美術関係の予備校で教えた経験がある息子は、初心者を乗せるのがうまいなあ。

2006年12月3日(日)
芸術的一日

土曜日の午後、友人と渋谷のセルリアンタワーの中にある能楽堂に行った。
出し物は
「橋姫」。夫が若い美人を愛していることに悩み苦しみ、やがて鬼になって恨みを晴らそうとまで思いつめる女心の変化を、歌人の馬場あき子が脚色。その同じ内容を「地唄舞と地唄」、女流義太夫の「語り」、そして「能舞」の三者三様の形式で表現する試みだった。

嫉妬に悩む女の切なさや鬼に変わっていく業の深さ、そしてその間の微妙な変化を、それぞれの表現者たちが三様の形式で演じていくのは見ていて興味深かった。
帰り際、免疫学者の多田富雄氏が奥さんに車椅子を押してもらいながら出てくるのに出会った。以前、NHKスペシャル「脳梗塞からの“再生”〜免疫学者・多田富雄の闘い」で見たのですぐ分かって、思わず挨拶すると会釈を返してくれた。能の作者として観に来ていたのだろう。
車椅子を押す内科医の奥さんと高名な学者の二人連れは自然で静かで、まるで一幅の絵のようだった。

「橋姫」を唄った西松流家元の布咏さんとセルリアンタワー40階の喫茶店でいっときお茶を飲みながら感想めいたものを伝えた後、友人と初台のオペラシティーに向かう。
今度は「建築家、伊藤豊雄」の仕事を紹介したギャラリー。世界的に注目されている伊藤豊雄の最近の建築を見ると、「建築もここまで来たか」と思う。

これまでの建築と言えば、建築の使われ方、周囲の環境との関係、重力を中心とした構造、などの条件をもとに建築家の思想や美意識を加えて出来ていたが、彼はそのプロセスを飛び越えてしまった。
まず斬新な構造的造形をコンピュータを用いて生み出し、その上で構造的条件や用途などとの折り合いを、これもまたコンピュータを使って調整しながら最終的デザインを決めていく。
造形的挑戦と現実的要求との間の調整には高度な技術がいるものの、この方法だと実は軽々と独創的な建築を生み出せる。彼はその秘密の鍵を見つけてしまったのだろう。

友人と一杯やって帰宅した後、描きかけの絵?NO.7に取り掛かる。殆どギブアップしかけていたが、今日何とか仕上げてトップページにアップした。
相変わらず、これが絵とはとてもいえないが、それでも諦めずに描いていると幾つかのことを発見したりするから面白い。
「抽象」から「きてれつな具象」が導き出されるそのプロセスは、事の大小は別として上述の独創的建築を生み出すプロセスと似ないでもないような気がする。次回はその絵?の経過説明を写真つきで書いてみたい。

ともあれ、幻かあるいは単なる気配なのかも知れないが、芸術の奥に潜む何ものかを垣間見た気がした一日ではあった。

2006年11月19日(日)
絵?の6作目

水彩画だが油絵のように色を塗り重ねて、何だか分からない抽象画を描いてみようと、5作目までとは違った描き方にトライした。最初は抽象画の大画家「野見山暁治」ばりにめちゃくちゃに色と線を塗り重ねてみた。右の図がその途中経過だ。

その途中結果を乾かして
5日後に再び色を塗っているうちに、始めは考えもしなかった風景が浮かび上がってきた。大地と山と巨大な夕日と。

こんな途中経過をたどって生まれる絵は果たして絵なのか?これだと随分と荒唐無稽な図柄になりやすい。まあ、本人が絵と思っているうちは絵なのだろうと思ってアップしてみた(トップページ下)
NO.5までとはちょっと違ってはいるが、色を塗り重ねる楽しさも少し味わった。こんな絵の描き方なら油絵の方がいいのだろう。

ところで、夕食後すぐに取り掛かったせいだろうか、2時間も描いているうちに胃が痛くなった。ということは消化に廻す血流を頭に廻していた、ということでこんな絵でも頭を使って描いている証拠ではないかと我ながらおかしくなった。

2006年11月19日(日)
あっという間

 「泣きながら生きて」(前回)の主人公の15年は、35歳で来日し勉強しながら日本で成功するという夢が破れ、不法滞在者として過酷な労働に明け暮れた15年だった。
 15年間の過酷な労働によって、彼は頭も薄くなり歯も抜け、50歳なのにすっかり初老の男になってしまった。しかしその結果、娘は期待にこたえてアメリカの一流大学で女医になり、男は晴れて再び故郷上海に帰り、夫を信じて家を守ってきた妻と暮らす日を迎えることが出来た。

 15年も家族とはなれて暮らすことが果たして唯一の正しい選択だったのかどうか。こうした結末を迎える前に家族崩壊などの悲惨な結果になる可能性だって多分にあっただろう。
 ただ一つだけいえるのは、残してきた家族の幸福を守るということが男にとって、唯一の生きる支えになっていたということ。そういう意味では、彼に他の選択肢はなかっただろうと思う。

 懸命に生きた15年は、男にとって特別に濃密な15年だったに違いない。しかし、これも終わってしまえば、「あっという間」の15年という表現になるのだろうか。
 同時に、この「あっという間」という感じは、何か他の人生があったのかもしれないという寂しさや、終わってしまえばあの時間は何だったのかというような一種の空しさのような感覚を伴っているのだろうか?

 某日、息子の結婚式。新郎新婦の生い立ちが写真構成で披露された。産院で生まれた直後の写真、母親に抱かれた写真、祖母や兄妹たちとの家族写真、七五三の記念写真、家族旅行の写真、中学、高校の記念行事の写真、などなど2人の二十数年が「家族の風景」(とてもいい曲だった)という歌をバックにナレーションなしで淡々と映し出された。
 若い2人はパソコンでこれらの写真を編集している時に、何故か涙が溢れてきたというが、式から帰った家内は「(子育ても)振り返って見れば本当にあっという間だったなあ」と一人感慨にふけっていた。

 「人間五十年 下天の内に比ぶれば 夢幻の如くなり」(敦盛)などというが、人生も終わってしまえば本当に「あっという間」には違いない。そしてこの「あっという間」という感じをどう解釈すべきなのか、というのが凡人にはなかなかに難しい。
 特に、人生も終盤に差し掛かると、過ぎ去っていく時間がますます早くなり、「あっという間」を折々に思い知らされる。それは時に、空しさや無常感を引き連れてくることもある
 しかし私などは、その「あっという間」の本質が何なのか、その感情がどこから来るものなのか、突き止めたことがない。いつも黒々と空いたその穴をこわごわ覗いているばかりだ。

 一方で、元気で生きている80歳や90歳の大先輩を見ると、そんな空しさは気の迷いではないかとさえ思わされることがある。彼らは、『人生は「あっという間」かもしれないが、そんな空しさは本当に死んだ後に思えばいいではないか』、と達観しているような気がする。
 彼らは、どこかでこうした死の不条理や無常感に抗しながら、いつも何かしら夢を持ってクリエイティブ(創造的)に生きている。凡人にはなかなかできないことだが、それは素晴らしいと思う。

 このところ、お葬式が3回も続いたので、人生の「あっという間」について考えてみた。あまり突き詰めて考えたくないテーマかもしれないが。

2006年11月11日(土)
泣きながら生きて

 113日の夜9時からフジTVで放送されたドキュメンタリー「泣きながら生きて」を見て、15年と言う歳月の意味や重さというものを考えさせられた。10年の長きにわたってある中国人家族を追ったドキュメンタリーである。
 
 15年前、日本で勉強するために故国中国に妻子をのこして35歳の男が来日した。北海道の阿寒町が始めた日本語学校に入学するが、働きながら学び、中国で借りた42万円の借金を返す計画は、過疎地の阿寒町に働く場所がないことからもろくも崩れてしまう。
 夢破れた彼は阿寒町を抜け出して東京に出た。以後滞在期間が過ぎたあとも不法滞在者として借金を返すために働く毎日となる。ビルの清掃や中華料理のコックや零細企業の工場労働者などを3つも掛け持ちしながら金を中国に送り続ける。
 
 やがて彼の夢は自分が勉強する代わりに、娘を一流の学校にやることに変わる。娘の学費を稼ぐために、終電あとの線路を歩いて帰宅し、一部屋の安アパートで深夜、食事と次の日の弁当を作り、銭湯代を浮かすために部屋でビニールで囲いながら体を洗う。寝る間も惜しんで稼いだ金はすべて中国に送金した。
 上海には妻と娘がいるが、男が苦労して送金してくれていることを理解している。妻は縫製工場で働いた金で家計をやりくりし、男からの送金はすべて娘の来るべき留学費用として貯金している。

 やがて、成長した娘はアメリカの一流大学のNY州立大学に入学した。彼女がNYへ向かう途中日本に立ち寄り、8年ぶりに父親に会う。娘は父親がどんな暮らしをしながら自分の学費を作ってくれたのかを目のあたりにする。
 アメリカに見送る日、不法滞在のために成田までは行けない男は日暮里駅で娘と別れる。ホームに下りた父に背を向けながら娘は電車の中で泣き続ける。

 男はアメリカの娘に仕送りするためにさらに東京で働き続ける。過酷な労働のために頭も薄くなり、歯も半分は抜けてしまった。
 その4年後、今度は妻がアメリカの娘に会うために72時間だけ男のいる日本に立ち寄る。13年ぶりの夫婦の再会である。
 この日のために男はアパートのシーツを洗濯し、東京見物の計画を練った。浅草を散歩する2人。狭いアパートの一室で夫の暮らしぶりを見て妻も涙を流す。
 
 アメリカの娘はNYで医者の卵になった。そして来日から15年、男が妻の待つ中国に帰る日が来た。
 50歳になった男は15年ぶりに北海道の阿寒町に行き、かつて勉学を志した日本語学校を訪ねる。阿寒町の事業はとうに破綻し、学校は廃校になっていた。

 男は廃校に向かって頭を深々と下げる。あの時は逃げ出す以外にどうしようもなかったが、勉学を断念して申し訳なかったと。

 上海では妻が歯の悪い夫のために柔らかいご馳走を用意して夫の帰国を待っている。
 アメリカ
NYでは白衣の娘が生まれたばかりの赤ちゃんを診察している。
娘が言う。「私の父親は信じられないくらいの苦労をして私を医者にしてくれた。その苦労に報いるためにも私は一人でも多くの患者を救いたい。」

 上海に向かう機内で男は涙を流し続ける。「万感胸に迫るとはこのことだろう。(続く)

2006年11月9日(木)
父親たちの星条旗

クリント・イーストウッド監督の映画「父親たちの星条旗」を見た。太平洋戦争の激戦地、硫黄島での戦いをアメリカ側のエピソードで描いた映画。ジェームズ・ブラッドリーが書いた同名のノンフィクションを映画化したものである。

シナリオはさすがイーストウッド監督、良く出来ている。戦争の映像も凄い。
多大な犠牲者を出した後にアメリカ軍が硫黄島のすり鉢山頂上に星条旗を立てたのは2度あった。最初に立てた時の写真はなく、後に新聞にも載ったり、記念碑の群像にもなった有名な写真は旗をもっと大きなものに取り替えるために立て直した「2度目のもの」だった。

その2度目の写真に写った兵士たちも実は最初に頂上を征服した兵士たちと違って、その後たまたまその場にいた兵士たちだった。しかし、2度目の写真に写った3人の兵士はすぐに帰国させられ硫黄島征服の英雄として戦費調達のための様々なイベントに駆り出されることになる。

3人を英雄に祭り上げて底をつきかけた戦費調達にやっきになる政治家たち、英雄の役割を演じることに抵抗を感じる3人と対照的なアメリカ国民の熱狂ぶり、彼らが英雄としてもてはやされている間にも硫黄島の過酷な戦いで死んでいく海兵隊たち、最初に旗を掲げた後に島で戦死した遺族たちの冷たい目。その合間に「地獄の中の地獄」と言われた戦争の経過映像が挿入されていく。

この映画で監督が描きたかったのは、戦争に利用された3人の心の屈折と戦争による心の傷だろうと思う。それは、上の図式のような対立的要素が効果的にぶつかり合うことによって最終的に戦争の空しさを伝えている。
良くできた映画だと思う。しかし、一方で練りに練ったシナリオの落とし穴も感じさせる。

アカデミー賞を取った「ミリオンダラー・ベイビー」(イーストウッド監督)も、最初これでもかと言うくらい老コーチが女ボクサーを拒否したりする。後半の彼女の挑戦を盛り上げるための演出だと思う。
まあ、それはともかく私は人生の現実も戦争の現実もそのような絵に描いたような図式に当てはまらないところにあるのだともう。

硫黄島では前回書いたように2万129名の日本兵と6821名のアメリカ兵が戦死した。映画が描いたのはその戦争で生き残ったたった3人のアメリカ兵の物語である。その陰には2万7千人の一つ一つ違った人生があった。
「散るぞ悲しき」を読むと、日本兵の中には15,6歳の少年兵も沢山いた。夕方島での訓練を終えた彼らは「夕空晴れて秋風吹き」と歌いながら隊列を組んで帰った。「ああ わが父母いかにおわす」と続く、この女々しいと受け取られかねない「故郷の空」の歌を上官たちもとがめることなく聞き入っていたと言う。

戦争の過酷さは戦いで死んだ膨大な人々、一人一人に特別なものである。私はこの映画の良さを否定するつもりはないが、一つの図式の背後にはそれにも当てはまらない、もっと過酷で悲惨な現実が山のようにあるということもまた忘れてならないと思う。

2006年10月22日(日)
日本人の戦争A

激戦の地「硫黄島」
東京から南に1250キロ離れた絶海の中に硫黄島はある。広さが世田谷区の半分にも満たない22平方キロメートル、縦に8.5キロ、横に4.5キロしかない小さな島である。
島はしゃもじのような形をしているが、柄に当たる島の南西に標高169メートルの摺鉢山があるほかはなだらかな台地が広がっている。
この小さな島が太平洋戦争中、アメリカ海兵隊の兵士に「地獄の中の地獄」と言わしめた激戦の地となった。

アメリカ軍は上陸前に海と空から74日間にわたって島の形が変わるほどの徹底的な爆撃を行ったあと、昭和20219日、上陸を開始。圧倒的な火力を備えた6万のアメリカ軍が島を守る日本軍2万に襲い掛かった。

当初、アメリカ軍は上陸後5日で島を制圧できると見ていた。上陸前の砲撃を見て「これじゃ日本兵は一人残らず死ぬんじゃないか」「おれたち用の日本人は残っているのかな?」と言っていた海兵隊は、しかし予想に反して島の地下壕に潜んでいた日本兵と地獄のような死闘を続けることになる。

双方死力を尽くした戦闘は36日間続いた。米軍側の死傷者2万8686名(うち死者6821名)、日本側死傷者2万1152名(うち死者2万129名)。硫黄島は、太平洋戦争においてアメリカが攻勢に転じた後、米軍の損害が日本軍の損害を上回った唯一の戦場となった。

総指揮官、栗林忠道
日本軍2万の総指揮官は、陸軍中将の栗林忠道である。彼は、それより前の島々の攻防戦で失敗した「水際作戦」を排除して、アメリカ軍を島に呼び込んで島中にめぐらした地下壕から地上の敵と戦うという独創的な戦術を採った。
着任した昭和196月以来8ヶ月、彼は食料も野菜も乏しく、特に水は雨水しか頼れない厳しい環境の中、2万の部下とともに地下壕を掘り続けた。

両者の戦力を比較すれば、日本軍には万に一つの勝ち目もない絶望的な戦いである。彼は闘いの目的を、戦いを出来るだけ長く引き延ばし、一人でも多くの敵を殺すことに置いた。彼らが硫黄島で戦っている限り、首都東京の空襲を防げると考えたからである。
そして、部下にバンザイ突撃による玉砕を禁じ、一人になっても最後の最後までゲリラとなって戦うことを命じた。

栗林中将と2万の日本兵は、36日間でほぼ全滅したが、最後の兵士2名が投降したのは終戦から3年半、主力部隊の全滅後から4年近くもたっていた。

硫黄島の悲劇が伝えるもの
硫黄島の戦いを描いた話題のノンフィクション「散るぞ悲しき」(梯久美子)。これを読むと、硫黄島の戦いにもまた先の戦争の典型的な悲劇が凝縮しているのが分かる。
@ 充分な食料も水も、そして武器も補給せず、2万の軍隊を送り込んで太平洋の要衝を守らせたこと。
A 指揮官栗林はアメリカ駐在の経験を持っていて「アメリカは最も闘ってはならない国」と考えていたにもかかわらず、アメリカの物量作戦と戦う運命に置かれたこと。
B 現地指揮官が大本営の無能に悩まされたこと。大本営は、島の重要性を知りながら誤った水際作戦を強要する一方、補給を怠り、やがて島を見捨てた。

極限の中で命を賭して壮絶なまでに戦ったかつての日本兵の姿を知るにつけ、戦争の悲劇、むなしさが一層募ってくる。

戦争のドキュメントは私たちに、局部の作戦、戦術の成否を後から「たられば」(ああなっていたら、こうしていれば局部的には勝っていたかも知れない)で云々するより大事なことがあることを教えてくれる。
大事なのはむしろ、この愚かな戦争が何故引き起こされたのか、引き起こしたのは何か(誰か)という大局的な視点の中で、個々の悲劇的現実を見ることなのだ。

まもなく、日米両国から硫黄島の戦いを描いたクリント・イーストウッド監督の2本の映画「父親たちの星条旗「硫黄島からの手紙」が公開される。これらの感想もいずれ書きたいと思う。

2006年10月14日(土)
絵?の4作目
絵?の4作目をアップした。今度は少し細部も描き込んでみようと思ったので延べ5時間はかかったと思う。始めは気ままな線を描いているが、途中から何だか様々なイメージが浮かんでくるような気がして、そんなイメージにつなげながら図柄が決まっていった。
描いていて分かったが、描いている間中は結構いろんなことを考えながら描いている。左右の重さのバランスやら、馬や鯨のイメージやら、ちょっとエロチックなお尻の感じやら。色も今回はすべての色に白と黒(つまり灰色)を混ぜて見た。

しかし、出来上がった絵を見ると余りにそのイメージが多すぎて雑多になった感じがする(素人批評)。なるほど、いい加減に描いていても絵というのは難しいものだ。
今回は、細部をもっと丁寧に書かなければと気になったが、根本的な構図がこれだとすると、悪あがきはこれまでと思い切る。やはりいくらでも書き直せる油絵がいいのかも。

家人に言わせると「色は前と変わった感じがするが、線の感じは代わり映えしない。」そうだが、まだ4枚目なので、いろいろやってみてから。
しかし、いろいろ難しい点(壁)もある。まず、背景の描き方が分からない。こんな初歩から、絵画教室に行ったり、「描き方入門」のような本などを見るようなことはしたくないと思うのだが、このままでは、この先の進み方が分からない。

まあ、楽しければ良しとして、後はゴミの山ができたとしても仕方がない。描いている間は何かと頭は使うのだから、ボケ防止と思いつつ、暫くは目をつぶって気持ちの赴くままに遊んでみる。(絵描きは長生きというし)
何だか、こどもの落書き帳のようになってきた。

ということで、自分の絵の拙さを棚に上げて、「絵を描く楽しさ」の文章表現にトライしてみた。どうもこっちのほうは自分の心の動きをただ文字にするだけだから、同じ表現作業ではあるが、絵よりは御しやすい。
2006年9月30日(土)
絵?の3作目

息子が細い筆と絵の具(アクリルガッシュというのだそうだ)を買ってきてくれたので、3作目に取り掛かった。今回は少し丁寧に色の周辺を塗ってみた。やっているうちに魚と鳥のイメージが浮かんできた。色の選び方がなかなか難しい。で、先ほど一応完成。早速デジカメでHPに取り込んでみた。
デジタル処理で、「くっきり」というのをやってみると、なるほどはっきりする。こういうデジタル処理も作品のうちなのだろうか?
そうこうするうちに結構時間はつぶれるものだということが分かったが、果たして次の発展はどうなるか?
画家と違って悩みながら描くようなものではないけれど、発展途上だと思えばいいのかも。

*)
その後、少しずつ手を入れて10月5日版をアップした。特に大きく変わったわけではないが、「絵を描く悦び」(千住博)を読んでいたら、描きこんでいってのちに「筆の置き時」というのが案外難しいものだと言うことが書いてある。
そこのところはまだ分からないが、とりあえずこれ以上かいていても描きようがないので、3作目はこれが止め時と考えた。そういう意味では、これが最終版。

この先、この趣味をどう持っていくか。すぐ飽きそうな気もするのだが、息子からは「あと100枚くらい書かないと何とも批評のしようがない。」と言われている。これもぼちぼちやっていこうか。

2006年9月18日(月)
絵?を描く

土曜日。出かけたついでに思い立って画材店に寄り、絵筆を一本と絵の具とスケッチブックを買ってきた。絵の具で絵を描くのは小学生以来だろう。コップに水を汲んで筆をぬらし、絵の具を溶いてスケッチブックに描いてみた。

写生のような基礎はないので、とりあえず気の赴くままに線を引き、色をつけていく。1時間ほどでやることがなくなった。結構太い筆なので、これ以上細かくは色付けできない。とりあえず第1作目が完成した。
次の日は、線というよりは色を配置しながら描いてみた。これも1時間ほどでやることがなくなった。2作目である。

スケッチブックで見ると、いかにも未完成の拙い絵だ。そこで携帯のカメラで撮影すると、意外に色調がいい。僅かに青みがかって透明感のようなものが出ている。
パソコンにメールで送り、HPに取り込んだのがトップページ下段にある絵らしきものである。小学生の時でも張り出された記憶がないのに、何となく気分がよくなって貼り付けてしまった。

しかし、描いている間は気分が良かったのだが、この手の絵をどうすれば、多少とも発展させられるかが分からない。
一応美大を出ている息子に知らせたら、「今度帰るとき細い筆と絵の具を持っていくから。もう少し、きめ細かく描いてみたら。」「同じようなものだけでなく違う種類も描くといい。」などと励まされた。

自分が何故こんなことを始めたかは良く分からない。多分、老後の暇つぶしを何か見つけようとしているのだろう。
試みに、趣味でやっている人はどんな絵を描いているのだろうかと、ネットでスケッチや絵のHPを探してみた。これがものすごく多くてびっくり。
特に「旅スケッチと読書」というHPは、膨大な読書と旅と上手なスケッチとがあって、ほとほと感心した。
抽象画を載せているHPもある。素人とは思えない出来である。

ネット上にはこんな世界が広がっている。一人一人が驚くほど深く趣味にのめりこんで、成果をネット上で発表する。面白い時代になったものだと思う。
私の方は、絵の具と細い筆が来たら少し次が見えてくるのだろうか。一度でいいから思い切り大きなキャンバスに油絵で何か描いてみたい気もするのだが。

2006年9月17日(日)
日本人の戦争

台湾とフィリピンの間に「バシー海峡」がある。昭和18年半ばには既に日本はこの海峡での制海権を失っており、日本軍の輸送船は出没するアメリカの潜水艦や戦闘機の格好の標的となって、大量の兵員を載せた輸送船が次々と海の藻屑と消えていった。
それでも大本営はやがてフィリピンに再上陸するであろうマッカーサーを迎え撃つために兵員を送り込み続けた。

評論家、山本七平も昭和19年4月、22歳の時、戦地フィリピンに行くために門司から輸送船に積み込まれた。輸送船とは名ばかりの老朽貨物船。甲板には、船べりを伝って海に汚物を垂れ流す便所が無数に並んでおり、船全体が異臭を放っている。
午後1時、貨物船に3千人を詰め込む作業が始まる。しかし乗船作業は遅々として進まず、雨の中兵隊たちは待ち続けた。

胴回り2倍ほどの装備と座布団のような救命胴衣を着けた兵隊が乗り込むのだが、その詰め込み方が想像を絶している。
一坪(たたみ2畳)の船倉を上下2段に区切って、そこに14人を押し込むのだ。一旦横になって並ぶと立つことも出来ない。湿気100%の蒸し暑い船倉に3千人の兵隊を押し込むのに夜半までかかった。

船のスピードは5ノット(時速9キロ強)。この身動きも出来ないすし詰めの状態で、ノロノロとしかも発見を避けるためにジグザグに、危険なバシー海峡を渡ってフィリピンに向かう。
木造老朽船は魚雷が当たれば15秒で沈没した。誰も助からない。山本氏はそれをアウシュビッツよりも恐ろしい死のベルトコンベアだと書いている。
事実多くの輸送船が声を発する間もなく消えて行き、その大量の戦死は秘密にされた。

しかも奇跡的にフィリピンに到着した兵隊を待っていたのは、「何だって大本営は、兵員ばかりゾロゾロと送り込んで来るのだ。こっちには食い物も宿舎も武器もないのに。」という状況である。
到着した兵隊が飯ごうの残りかすをあさっている乞食のような人たちを目撃するが、よく見るとそれが先着の日本兵であり、到着した日本兵がそういう姿になるのに10日もかからなかった。

人間の命が紙くずのように扱われ、貨物船に押し込まれたときから日本兵の思考力も戦意も失われていた。
こうした状況を軍部の誰も直視せず、50万人を送ってだめなら100万人を送り込むと言う、行き当たりばったりの作戦を大本営は続けていたのである。

山本七平の「日本はなぜ敗れるのか 敗因21か条」は、帯に「奥田会長が是非読むようにとトヨタ幹部に薦めた」とあるが、様々な角度からこうした行き当たりばったりの思考方法がいまだに日本を支配している、ということを伝えている。体験者にしか書けない名著と言うべきだろう。

2006年9月4日(月)
停止したHP

時々、何かのキーワードをインターネットの検索にかけてアクセスしてみると、何年も前に更新をやめたサイトに出会うことがある。最後の書きこみが3年前だったりして、まるで墓碑銘のように時間がそこで止まっている
そのサイトがなぜ停止したのか、理由が書いてあるのもあるが、多くは説明のないままある日を境に突然停止している。

停止したHPの裏にはどんな事情があったのだろうか。ある日突然更新する情熱が冷めてしまったのか、よくあるように誹謗中傷に嫌気がさしたのか。
また病気や高齢化で続けられなくなった場合もあれば、サイトの主が亡くなってしまったケースもあるかもしれない。放置されたサイトを眺めていると、妙に想像をかき立てられる。

今、日本では400万を越える個人ブログやHPがあるというから、毎年何十万と言うサイトが誕生する一方で、毎年何十万と言うサイトが放棄されているにちがいない。
その中には閉鎖の手続きが出来ないまま残るサイトもあれば、意図的に残しているサイトもあるだろう(それはどんな意図なのだろう?)。
プロバイダーとの契約が切れない限りHPはサーバーに残るから、このような時の止まったサイトはネット上に無数に増えているはずだ。

主(あるじ)のいないサイトでも訪れる人があれば、アクセス数が少しずつ増えていく。それを見ると、あの軍歌の「時計ばかりがコチコチと」というフレーズが思い浮かぶが、しかし単純にそればかりで片付けられない気もする。

(あり得ないかも知れないが)サイトが何十年も残った場合、かつての主が書いたメッセージは彼が想定していた読者とは全く別種の読者の目に触れることになる。
たとえ僅かな読者でも、既にこの世にいない主からすればそれは不思議な読者だ。本気でそんなことを考えると、文体まで変わってくるに違いない。遠い未来の無人の空間に向けて書くような。。。

とまあ、最近の日本を見ていると書かなければならないことが沢山あるはずなのに、気息奄々状態で思うように更新が出来ない私は、自分のHPが停止した時のことなどを想像してこんなことを考えたりしている。

2006年8月26日(土)
この国の姿・田舎

ある日ふと、「帰りなんいざ 田園まさに荒れなんとす」という、ご存知、唐淵明の漢詩「帰去来の辞」の一節が頭に浮かび、面白半分にネット検索に入れてみた。すると意外なことに、実に多くの人たちがこの言葉を引用しながらネット上で「あるテーマ」について書いているのを発見した。

「あるテーマ」とは、要約すれば老後の田舎暮らしについてである。今、多くの日本人が田舎で暮らすことにある種の憧れを抱いているらしい。
毎日、嫌なニュースだらけの閉塞感のある都会生活を脱出して、老後を田舎という異次元の空間でゆったりと暮らしてみたいと幻想を抱く人の気持ちは分からないでもない。

しかし一方で、今の日本に快適な暮らしが出来る田舎なんてあるのかとも思ってしまう。バブル崩壊後の失われた10年に続く小泉政治の5年間、日本の田舎は打ち捨てられてきた
地方経済が崩壊の中から立ち上がれないままに過ぎた15年の間に、日本の田舎は大きく変わってしまったのではないか。でもどんな風に変わったのだろう?

この夏、私はそんな思いを抱きながら郷里を訪ね、50年前の記憶と比べながら周辺を歩いてみた。以下はその時の雑感である。

森のそばにあった、かつての保育園はとっくになくなって、お決まりの小公園になった。錆びたブランコと滑り台が寂しく残っているが、十年以上も前から使われている気配はない。子どもが減ってしまったのだ。
昔は森に分け入り、よく蝉を取ったものだが、森は今、手が入らないまま人を寄せ付けないほどにうっそうと茂っている。

一方、家の近くにあった祠(ほこら)は、かつて何本もの大木に囲まれていたが、数本を残して無残に伐採されていた。コンクリート製の小さな祠と鳥居に変わって、すぐそばには開発された住宅地。住宅メーカーのパンフレットから抜け出したような、日本の田舎にそぐわない華やかな住宅が何軒か並んでいる。
そうかと思えば、朽ち果てた家、草に覆われた家も目立つ。住人が出て行ってしまったのだろう。

住宅地がくしの歯が抜けたように、駐車場になっている。そこには、何故か車だけが多い。
近くにあった日用品の店はもうかなり昔に店じまいし、バスで町に買い物に出なければならない。老母によれば、そのバスの便もだんだんと少なくなり、今では2時間に一便だと言う。

今、地方経済は限られているから、日本の田舎に都会人が移り住むには、極論すればテレビでよくやっているように、自給自足か、年金生活かになってしまう。日本の田舎は今後、どうなっていくのだろうか。

一つ言えるのは、それでも田舎の存在は都会の日本人にとって心のよりどころであり続けるということだ。
そう考えれば、荒れた田舎も政治の舵取り次第で、本当は限りない可能性を残しているはずだし、田舎の再生はこれからの重要な政治課題になるべきだろう

「帰りなんいざ 田園まさに荒れなんとす」という言葉が最近妙に心に引っかかる。

2006年8月18日(金)
日本民藝館

韓国の陶磁器を見た後、関心の赴くままに東京駒場にある日本民藝館を訪ねた。ここは、日本の民芸(民衆的工芸)運動の創始者、柳宗悦(むねよし)が運動の本拠地として昭和11年に開館した。

ちょうど、柳宗悦の運動に共感した芸術家たちの作品展
「民芸運動の巨匠」展が開かれていた。バーナード・リーチ、河井寛次郎、浜田庄司の陶磁器、芹沢けい介の紅型染め、棟方志功の版画など200点が展示されている。

柳宗悦は朝鮮の陶磁器を高く評価し、その美の理論付けをしながら戦前の日本で朝鮮文化の保存を訴えた。ここには彼の李朝陶磁器の収集品も展示されている。いずれも生活用品として使われたものばかりで、長年の使用のためか白磁の表面が擦り切れている。それはそれでいいのだが、やはり韓国で見た芸術品とは何かが違う。

残念ながら私は不勉強で、大正から昭和初期にかけて始まった日本の民芸運動が戦争を挟んで、その後どういう経過をたどったのか、良く知らない。
たしかに、日本の生活文化を支えた無名の作家による工芸品には、室町江戸から明治大正、昭和にいたる脈々とした(健康で正常な)美意識があったと思う。
しかし、民芸品がそれだけで、いわゆる「芸術」に昇華し、見るものを感動させるのかどうか、そこは難しいところだ。

かつて、実存主義の作家アンドレ・マルローは大意、「人間は誰も死の不条理を避けることは出来ない。人間がその死という不条理に抵抗しながら、表現を通して永遠を目指す。それが芸術の意味なのだ。不条理の中にあって芸術だけが永遠性を持つ。」と言った。

無名の工芸家たちの作品であっても、作家たちの、永遠を目指す息遣いが時を越えて聞こえるかどうか、そこがポイントなのではないか。鑑賞する側も耳を澄まさなければならないのだが。

私たちが美術館に足を運ぶのは、単にいいものや美しいものに触れたいということのほかに、時空を越えてなお生き続けるものに対する畏敬の念があるからではないだろうか。

2006年8月13日(日)
韓国陶磁器、国宝巡り

4年ぶりに韓国ソウルに行った。滞在期間が短かったので、一点突破、韓国の焼き物の国宝を3つの美術館、博物館を巡って鑑賞してきた。素人ながら堪能してきたと言っていい。

訪ねた美術館は
三星(リウム)美術館国立中央博物館湖林(ホーリン)美術館(写真)の3館。
それぞれに特徴のある新しい建物であるが、陶磁器に詳しいソウルの人に言わせると、この3館(他にもう1館あるらしいが)には、高麗、李朝朝鮮時代の青磁、白磁の代表的国宝が展示されているという。



高麗や李朝の陶磁器の国宝は、さすがに何と言うか、気品がある。中国の陶磁器ように精緻だったり、華麗だったり工芸者たちの技術の粋を集めて作ったと言うような美ではなく、韓国の名品はゆったりとして、どこか素朴ささえ残している。

かつてこの美しさに魅せられた日本の芸術家たちは、そこに日本人の美意識を重ね合わせて様々に解釈し発展させた。そのためか、我々にもどこか親しい感じがする。

特に、(国宝ではないが日本で言う重文というのだろうか?)白磁の大壷などは、表面が乳白色の柔らかい色合いを保っていて、形もたっぷりと豊かでおおらかなものである。
例えば日本の好事家だった立原正明の「美のなごり」に出てくる李朝の大壷もいいが、その親分のようなまっとうな美がそこにある。

魚の文様を描いた壷
もあった。600年も前のものとは思えないほど、シンプルでモダン。この素朴な斬新さも日本に伝わって様々な糧となったが、一緒に鑑賞した韓国の人は、この柔らかい豊かな美の系譜は、今の韓国のどこにあるのだろうといぶかっていた。

様々な作品の裏に流れている
「芸術の系譜」には、私など素人には想像できないような奥の深い物語があるのだろう。
絵画の場合もそうなのだろうが、芸術は長い歴史の中では国境を越えて流れる大河のように影響を及ぼしあっているらしい。かつてアンドレ・マルローが「東西美術論」で書いたように。

2006年8月3日(木)
殺すべきか?

先々週、春にピンクの花をつける海棠(かいどう)の葉が妙に少なくなったと思って見たら、黄緑色の小さな毛虫が沢山ついていた。去年も発生した毛虫である。
去年は、殺すのもなんだと思って20匹ばかりゴミバサミでつまんでは下水溝に捨てたのだが、今年は殺虫剤をかけた。
暫くたつと、毛虫たちは小さく縮んで地面に落ちていた。それをはき集めてゴミ袋に入れて捨てた。

そして先週。モッコウバラのつるが勢いよく四方に延びて来たので、柵に結び付けようとつるをまとめていたら、突然手の甲がぴりぴりと電気に触れたようになった。はじめは何だか分からなかったが、葉の裏に長さ1センチほどのあの毛虫がついている。
手の甲を見ると見えるか見えないほどの細い毛がいっぱい刺さっていた。その時は何故か平常心を失ってゴミバサミで毛虫をつまんではつぶして殺した。

手の甲を水でよく洗い、虫刺されの薬を塗ったのだが、昨夜寝ている間に赤く腫れはじめ、痒くて仕方がない。毛虫は毒を持った細い毛で外敵から身を守っているのだろう。
同時に、皮膚の中の組織は毛虫の毒に必死に対抗しているのだろう。赤く腫れてぼつぼつと硬くなってきた。

毛虫の毒による体内反応は、原因があって結果があるという自然の摂理である。それは、先週殺した毛虫の仇(かたき)を取られたのかも、あるいは殺したばちが当たったのか、というような人間の煩悩とは無関係なものだ。

それにしても、生きた毛虫を何十匹も殺すのは気持ちのいいものではない。明治の名僧弁栄上人は、道に蟻がいるとよけて通り、蚊に刺されても
      
やみの夜に泣ける蚊の声悲しけれ 血をわけるえにし思へば
と言ってつぶさずにそっと追いやったという。勝海舟も庭に雑草が生えてきて家人が抜こうとすると、「いいからうっちゃっておけ」と言ってそのままにさせていたという。

見つけた毛虫を殺すべきなのか、どうか。戦争やテロや犯罪で毎日沢山の人が殺されているのに比べればごく些細な迷いではあるが、年とともに迷いも深くなるような気がする。

2006年7月25日(火)
日本国憲法第25条

小泉改革の陰の部分である「格差社会の進行」によって、働いても働いても生活保護よりも収入が少ないと言う新しい貧困層「ワーキングプア」が全国で増大していると言う。
723日のNHKスペシャルでは、働く意志があり、働く必要があり、働けるのに、職がなく路上生活を余儀なくされる31歳の若者や、地方経済の崩壊によって仕事が殆どなく一食100円の食費で生活する75歳の仕立て職人のドキュメントが紹介されていた。

特に、東北の工場が閉鎖になって上京し路上生活をしながら必死に職を探す若者は、職を見つけようにも住所不定や面接に行くための交通費がないことがネックになってそこから這い上がれない。
ダンボールを組み立てて寝る彼の、どうしようもない絶望感が伝わってくる。今の日本には政治から見放されたそんな若者が急増している。

番組の中で、財務省出身のコメンテーターは、それでも「そうした貧困層にはかまっていたら、日本が経済的に発展しない」的な発言をしていたが、本当にそうなのだろうか。
私は、改めて「日本国憲法」を読んでみた。国民の基本的人権を定めた、第25条「生存権、国の生存権保障義務」だ。 

1.すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 
2. 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び
   増進に努めなければならない。


これを読んでみれば、今の政府が義務を果たしていないことが分かるだろう。
今夜は、3度も生活保護の申請を断られた市民が、「自分が死んで福祉政策を変えたい」と言って市役所の前で自殺したニュースが伝えられていた。
自殺者3万人と言う日本で、このニュースはどの位の関心を呼ぶのだろうか。

2006年7月23日(日)
戦争責任・続き

戦後の「極東国際軍事裁判(東京裁判)」で判決の出た、いわゆる「A級戦犯」については、その結果をサンフランシスコ講和条約で日本は受け入れた形になっていて、これは特に甚大な被害をこうむった近隣諸国にとって決着のついた結論である。(だから小泉首相の靖国参拝に対して中国や韓国も怒る)
しかし、この裁判の正当性を巡ってはその後も様々な異論が出ており、刑死したり獄死したりした「A級戦犯」を殉難者として祀るべきだと言う人々もいるのはご存知の通りである。

毎年、神社参拝を続ける小泉が、この「A級戦犯問題」について、どのような考えを持っているかはマスコミも追求しないし、彼も説明をしないので分からない。
しかし、日本人が自らの手で、自ら納得のいく形であの戦争の責任者を裁いたとしたら、その責任者を(二度と戦争をしてはならないと公言している)国の政治家たちがあのような形でお参りするだろうか。

前回、「日本人に対する戦争責任」について2つのポイントを書いたが、この観点から新たに追及されるべき責任者は、当然のことながら、靖国神社に合祀された「A級戦犯」と重なってくるだろう。 しかし、仮に重なったとしても、その意味や重さ、納得の度合いは大きく違ってくるはずである。

最近、昭和天皇が靖国神社への「
A級戦犯合祀」について、不快感を抱いていたことが報道された。その気持ちを尊重するような新聞の論調も多かったように思うが、天皇がなぜ不快感を抱いたのか、今ひとつ明快ではなかった。
天皇は、極東国際軍事裁判の結果を妥当と考え、尊重すべきだと思っていたのか、或いは、天皇の意図に反して無謀な戦争を始めた彼らの責任を、天皇なりに判定を下していたからなのだろうか。

いずれにしても、日本人自らが戦争責任問題をあいまいにしてきたつけは大きいと言わざるを得ない。

2006年7月17日(月)
もう一つの戦争責任

戦争責任といえば、日本が諸外国に与えた莫大な戦争被害(犠牲者2千万人という)に対する責任を裁いた「極東国際軍事裁判(東京裁判)」がある。この裁判は色々問題も指摘されるが、日本はサンフランシスコ講和条約(S26年)で国際的にもこの結果を受け入れたことになっている。

しかし、あの戦争を指導した人々にはもう一つ、日本を未曾有の厄災に導いた「日本国民に対する戦争責任」があるはずだ。
何しろ、「不戦の誓い」にも書いたが、先の太平洋戦争では300万人以上の日本国民が犠牲になり、日本は文字通り焼け野原になった。そして、犠牲者のうち150万人から200万人は、軍部指導者の無策によって南方の島々で飢え死にした日本兵である。

それなのに、当時は国民皆が国を思って自存自衛のための戦争に突き進んだのだから、誰も悪者にはできない、という人がいる。とんでもない話だ。
また、日本人の戦争責任を突き詰めていくと、らっきょの皮をむくみたいに誰も悪者がいなくなってしまう、と言う人もいるが、そんな「日本人総ざんげ論」ですますようなことではないのである。

国民の運命に責任を持つべき立場の為政者や軍部は、その思いや意図が何であれ国民に対する「結果責任」がある。それを日本人は自らの手で、厳しく問うべきだったのだが、東京裁判騒ぎと戦後の混乱の中で、これまでなおざりにして来た。
最近、遅ればせながら新聞などで「国民に対する戦争責任」の再検証が始まっている。靖国の「A級戦犯」合祀問題などを考える上で、避けて通れない問題になって来たからだろう。

しかし、これも多面的に検証すればするほど、悪者が増えて問題が拡散して何が何だか分からなくなる。
私としては「国民に対する戦争責任」を考える時、とりあえず、これだけは許せないと言う、以下の2つに絞って考えるのが最も分かりやすいのではないかと思っている。

第一に、日本を無謀な戦争に駆り立てた人々である。
国際的に孤立の道を歩み、戦争が避けられないような数々の愚かな選択(日独軍事同盟など)をし、日本を戦争に導いた為政者たち。さらには、国の運命をもてあそび、様々な軍事的冒険を勝手に始め、戦争拡大の道を突き進んだ軍部、軍人。
戦争を煽ったマスコミも悪いが、何しろ戦争は始めたやつが最大の戦犯である。

第二は、戦争を始めたからには終戦の道を一方で探ることは不可欠なのに、その判断を放棄し国民の悲惨な苦しみ長引かせた責任
特に戦争末期、誰が見ても敗戦しか方途がないと思われた時期に、終戦の努力を妨害し、広島、長崎を招いた責任。
第一よりは軽いかもしれないが、後世の教訓のためには、これも責任を問う必要があるだろう

これらの責任者は、すでに様々な研究からその具体的名前と罪状が明白になりつつある。東京裁判問題云々は別として、日本人自らがその責任の所在を明確にし戦争を防ぐ教訓として生かさなければ、先の戦争の犠牲者たちは浮かばれない。
暇を見つけて、「昭和史」から私なりに見つけた、現在に通じる教訓について順次書いて行こうと思うのだが。

2006年7月16日(日)
パワーゲーム

北朝鮮のミサイル発射に対する国連決議が決着。内容は日米案と中ロ案の妥協点を探った仏英案に全員が乗った形になった。その45分後、北朝鮮側はこの決議案に全面的に反論、拒否をした。
北朝鮮のカルト政権を巡って各国のパワーゲームが繰り広げられた10日間だったと言える。

パワーゲームに参加する各国には、それぞれ手持ちのカードが必要だが、それは何だったのだろうか。

北朝鮮にとってのカードは、核とミサイルで、これは、至上命題である体制維持について、完全な保証を得るまでは絶対に手放さないだろう。このカードを見せびらかしながら、国際的な見返り援助を引き出し、かつ、体制維持を図るために国内を引き締め続ける。
実際には使えないカードだが、使う寸前までエスカレートさせる瀬戸際外交の綱渡りを今後も続けることになるだろう。

中国とロシアにとってのカードは、北朝鮮。アメリカが六カ国協議にこだわる以上、北朝鮮問題はアメリカを中ロに配慮させるための有効なカードである。
中ロとも、北朝鮮を追い込んで暴発させるようなことには絶対反対だが、ある程度話が出来る北朝鮮の存在は、彼らにとって大事なカードになっている。(今回は失敗したが)

アメリカはどうか。極東で武力行使の余裕がないアメリカは、六カ国協議でも手詰まり状態だった。そこに今回は、日本と言うカードが現れた。中国、韓国までもが警戒するような突出振りを日本が発揮すれば、アメリカはこれを有効に使える。
一連の経緯を見ると、アメリカは日本の後ろで日本カードをうまく使った気配がある。

或いは日本は、それを承知で、自ら危険に身をさらすことで、進んでアメリカのカードになったのではないか。
日本のこうした選択が、何をもたらすのか。安全保障上で、アメリカへの発言権を確保し、軍事的自立を探る方向に動くのか。見せびらかしのための北朝鮮の核とミサイルを梃子に、日本は新しい局面に踏み出そうとしているように見える。

2006年7月12日(水)
対話と圧力

これまで「対話と圧力」と言ってきた日本政府が、北朝鮮のミサイル発射を受けて一気に圧力路線(北朝鮮に対する国連の制裁決議)に打って出た。
しかし、ここへ来て一緒にやってきたアメリカにはしごを外され、制裁決議を延期され、日本政府は戦略の未熟さを突かれた形になっている。

今回の北朝鮮のミサイル発射はアメリカと直接交渉をしたいという北側のメッセージだったというのが大方の見方である。私も(当初は)それが正しいと思った。
それに対して、日本政府はこの制裁決議で(日朝の緊張関係をエスカレートさせ)最終的に何を求めようとしたのだろうか。私にはどうもその真意が今一つつかめない。

一口に対話と圧力と言うが、どちらにもジレンマがある。
韓国や中国のような「対話路線」の場合、経済援助などの太陽政策によって北を懐柔し、それによって北朝鮮の民主化を促そうとしてもその可能性は少ないだろう。むしろ金正日独裁政権を強化し、軍事強化に金を使われるのが落ちかもしれない。

一方、「圧力路線」で体制崩壊をねらったとしてもうまく行く保証はない。(地続きの韓国が最も恐れるケースだが)その前に金正日は持っている核を含む武器弾薬を周辺国家に撒き散らして自爆(暴発)する危険がある。金正日独裁政権は、自己の運命しか眼中にない異常なカルト政権なのだから。

従って、北朝鮮問題は六カ国協議の場に北朝鮮を縛りつけ、暴発もさせず、生かしもしない状況で武器を使う口実を封鎖しながら、「対話と圧力」で粘り強く核の放棄を迫ることが現在では最もリスクの少ない方策なのである。それ以外は、戦争の覚悟がいる。

さて、そうすると、制裁の目的は「北朝鮮を六カ国協議の場に引き戻す」ことであるべきだし、制裁内容や政治的駆け引きもその目的から逆算したものであるべきである。
制裁は制裁でも、単なる懲罰が目的で、その結果ゴールの見えない「戦略なき制裁」はアメリカも危ないと思ったのではないか。

日本政府は拉致問題の上に、ミサイル発射という「挑発行為」に頭にきて、国民に強い姿勢を示したかったからなのか、あるいは韓国や中国の近隣諸国に強い姿勢を示したかったのか、世界を巻き込んだ制裁によって北朝鮮の政権の崩壊を望むようなところが頭の片隅にでもあったのだろうか。

あるいは、この危機を利用して日本を戦争可能な国にしたいと考えているのか。アメリカと一緒に一気に戦争で片をつけたいという幻想を抱く勢力がいるのかもしれないが、これはかつての日本がたどった道と同じである。
既に一部閣僚は、先制攻撃論などを口走って一気に戦闘モードというのも、危なっかしい限り。今回政府はあっという間に強気一点張りに変身したが、どうも次期政権は大丈夫なのだろうか。
少なくともこれで何を目指すのか、国民にきちんと説明すべきである。

2006年7月4日(火)
幼な子受難B

ある朝。
道路の向こう側を、見た目はごく普通の若い女がタバコを吸いながら歩いてきて、そのタバコを何の躊躇もなく路上に投げ捨て、横断歩道を渡り始めた。火がついたままのタバコを気にするそぶりもない。すれ違って見るその表情は、やはりどこかがずれている。

今はそういう何か大事なことを踏み外した若い女性が(もちろん男性も)子育てをする時代である。ある調査によると妊娠した女性の1割が喫煙を続けると言う。

生まれた赤ちゃんはただ可愛いばかりではない。
昼も夜も、お腹がすいては泣き、おしめがぬれては泣き、少し熱が出ても泣き、何だか分からない不機嫌でも泣く。
そういうサインが読み取れずにただあやしていても泣き止まない。途方にくれて叱ったりすればもっと泣く。

小さいながらも個性を持った赤ちゃんは泣くことで精一杯自己主張しているのだが、それを我侭と勘違いして、しつけのつもりで叱ったり叩いたりすると、赤ちゃんは何かに怯えたように情緒が不安定になる。
こうしたことが続くと、赤ちゃんはなつかなくなり、妙にいじけた表情や仕草を見せるようになる。表情も乏しくなり、ちょっとしたことで泣き喚くようになる。

赤ちゃんを可愛いペットを飼うぐらいに思っていた若い母親は、こんなはずではなかったとイライラする。
さらに、幼い子どもは親の心を映す鏡のようなものだから、親のイライラは子どもに伝染して、ますますいじけさせる。可愛いはずの子どもが可愛くない。悪循環の始まりである。

多かれ少なかれこうした(仮想の)心の揺れを経験しながら、多くの母親たちが踏み止まって子どもを受け入れて行くのは、本能に近い、偉大なる母性があるからだろうと思う。

しかし今は、その偉大な母性が、出口を見つけられずに心の内部に鬱積(うっせき)してしまうことがあるのではないか。
小学生殺人の畠山容疑者は、虐待していた我が娘が死んで初めて、自分の中の巨大な母性に直面したのだと思う。(私は本当だと思っているが)「胸が張り裂けそうになった」と言うのは、ある意味で現代の深刻な悲劇である。

2006年6月25日(日)
幼な子受難・続き

幼い子どもを持った親たちの中に、なぜ児童虐待などの悲劇が起きてしまうのか。そこには、よく言われるように親たちが孤立している社会背景、虐待されて親の愛情を知らずに育ったための悲劇の循環などがあるのだろう。
頭では分かるのだが、皮膚感覚としては分からない。そこで自分の理解のために、手探りで書いてみる。

私にも、妻からはいまだに「任せきりにした」と非難されてはいるが、子育ての経験はある。それに、私には1,2才の幼児が目に入ると自分でもおかしいくらいに、その子に興味が引き寄せられる癖がある。
彼らが、ものをじっと見つめているときに、あるいはこちらの顔をじっと見ている時に、その小さな頭の中で何を考えているのか、何を感じているのか、不思議なくらいに想像がかき立てられるのだ。

これは私が、幼児を集中観察すると「人間精神の原初的風景」が見えてくると思い込んでいるせいかもしれない。岡潔もかつて、自分の孫をじっと観察して、人間の赤ちゃんが自然数の1を理解し始める時期を特定しようとしたりした。

こうした個人的な観察をもとに、なぜ虐待の悲劇が起きてしまうのか、思い切り想像を働かせて探ってみたいが、今回はここまで。
次回以降は特に、生物学的距離感をキーワードに、(仮説ばかりの皮膚感覚のようなことになるだろうけれど)少しずつ書いてみます。

例えば、母親が子どもを自分の繭(まゆ)の中に入れてしまって、幼児と精神的距離が取れない現象について。さらに、虐待された子どもが作り出す精神的歪みに親たちが即反応してしまうことについて。密室の中での親子間の悪循環について。
そして、集団生活を送るべき人間が生物学的距離感を見失いつつあるような気がするということについて。(こういう脈絡のない短文を暫く続けることになりそう)

2006年6月20日(火)
幼な子受難

「お前がついて来ると迷惑なんだよ!」と大きな声がしたので見てみると、母親が小さな女の子(小学一年くらい)を突き飛ばしている。
街の中なので、母親からはぐれたら大変と思っているのだろう、女の子は、振り返りもしない母親の後を3メートルくらい離れながら必死についていく。その顔には、普段からこうした虐待に遭っているためか、あきらめに似た深い悲しみが張り付いている。
その子の目には、向こうから来る手をつないだ幸せそうな親子の姿は映っているのだろうか?父の日の先日、街で出会った光景である。

また、ある日の電車の中で「だから我慢しなさいって言ったでしょ!」と声を荒げる母親。
「出ちゃう出ちゃう」と言っていたのに、前の駅で降ろしてもらえなかった男児のズボンから電車の床におしっこが流れ出した。その時、母親を見上げた男児の悲しそうな表情も忘れられない。


秋田の小学生殺人事件。可哀想過ぎて詳しく読む気も起こらないが、容疑者の亡くなった娘(9歳)も、母親から虐待され、カップめんを持って冬の戸外に出されていたりして「死にたい」ともらしていたという。その幼な子の写真も数々の精神的、肉体的受難を経てきた暗い哀しみの表情をしている。

大人の心無い仕打ちが、いかに幼児の心に消しがたい傷を残していくか。特に幼い時に虐待を受けた大人が、我が子の心を思いやることが出来ない。
壊れた心に鎧(よろい)をつけ感覚を麻痺させた結果、かつての自分の悲しみを忘れてしまったのか。哀しい輪廻(循環)である。

子どもたちの無防備な心が大人からは想像できない位に敏感で傷つきやすいと言うことを、大人たちはもっと深刻に思い知るべきではないか。
幼児をめぐる数々の受難を見聞きするたびに、私は胸がふさがるような気持ちになって、なぜか世のすべての哀しみを引き受けて死んだ、あのキリストの受難を思ってしまう。

2006年6月19日(月)
若干の方針変更

この「メディアの風」は、日本と世界がどこに向かっているのかを読み解くという少し背伸びした志を掲げてスタートした。そして、ない知恵を絞りながらテーマを選んで、ある程度の分量のコラムを書いてきた。
しかしこのところ、なぜか身辺落ち着かず、なかなか集中できない状況が続いている。そこでやむを得ず、しばらくブログ日記の「風の日めくり」を中心にやっていくことにした。

「風の日めくり」は短文だが、出来ればコラムに発展するようなちょっと実のあるものを書きたいと思っている。いつかコラムとして芽を出す、発想の種まきになるような。
そしてやがて時間が出来たらそれをコラムにまとめていく。そんな仕組みにしていきたい。

ついでに日銀の福井総裁のこと。先日は、村上ファンドでは誰が利益を得ているのか、またその利益について投資家はちゃんと税金を払っているか、見えないと書いた。(「投機社会への疑問」)その疑問がよりによって日銀総裁で浮上するとは。

彼が任期中も村上ファンドに投資していたと言うことは、ぎりぎりセーフかもしれないが、利益についてきちんと確定申告していなかったらこれはアウトだ。
それについては国会に説明することになっているからもうすぐ分かるとして、
仮に彼が脱税していたというような、笑えないことになったら(今は信じれらないようなことが次々と起きるからなあ)、これはテーマとしてどんなものに発展していくのだろう?

2006年6月17日(土)
富弘美術館

地方美術館の続き。群馬県の桐生駅から、わたらせ渓谷鉄道に乗って神戸(ごうど)駅で降りると、村営バスが待っている。往復500円の切符を買うと、草木湖を見下ろす見晴らしのいい場所に建つ「富弘美術館」に連れて行ってくれる。

星野富弘(60歳)は若い時、器械体操の選手として活躍したが、体育教師となって中学校に赴任した直後に事故で頸髄(けいずい)を損傷、肩から下が麻痺してしまう。24歳だった。
9年間におよぶ入院生活の間に、キリスト教の洗礼を受け、母親の献身的な看病を受けながら、口にくわえた筆で植物の水彩画、ペン画を描き始め、後に詩を添えるようになった。

絵筆を口にくわえて描くと言う極めて不自由な描法を30年以上も根気よく続ける中で、彼の詩画は絵の内容においても、添える詩においても、少しずつ静かな進化(深化)を遂げてきた事がわかる。

最初は、絵の下に添えもののように詩がつけられていたが、やがて心境の深まりとともに詩が存在感を増し、絵の上部に現れる。そして最近では、さらに進化して絵と詩が混在するようになった。花や葉、茎の間に文字が絵のように配置されている。

その中の一枚。昼顔の蔓(つる)の間に、こんな心を打つ言葉が描かれている。
   雑草と呼ばれている 草だけれど
   一日で終わる草だけれど
   手を抜いている ところがあるか
   淋しそうな ところがあるか
   今日が一生 昼顔の花

もう一つ、春蘭の花に添えて。
   どんな時にも 神様に愛されている
   そう思っている
   手を伸ばせば届くところ
   呼べば聞こえるところ
   眠れない夜は 枕の中に
   あなたがいる

芸術家は皆、一所に安住することなく表現の新たな可能性を求めて創造的破壊を続けていく。そして、その持続する情熱が彼の心の王国を輝かせていくそんなことを実感した地方美術館めぐりだった。

2006年6月12日(月)
美術館続き

群馬県の美術館を訪ねた話の続きをしたい。まず伊万里、鍋島の陶磁器を集めた「栗田美術館」。(美術館HP)

江戸時代に日用雑器や装飾陶磁器を作っていた陶工たちが、自分の作品を今で言う芸術作品のように意識していたかどうかは分からない。しかし、展示されている作品は、それぞれにあっと驚くような
独創的な「様式美」を発見している。これが凄い。
そのような独創に到達するために、陶工たちは膨大な試行錯誤と時間を費やしたに違いない。展示品の数々に、無名の陶工たちが美を求めて格闘した生の息遣いを感じて胸を打たれる思いがした。
敷地の中に
「無名陶工祈念聖堂」と言う展示館がある。蒐集家の栗田氏も同じ思いだったのだろう。

不思議なことに、次に訪ねた「大川美術館」でも同じようなことを感じた。
特に「松本俊介」という画家のコレクション。画家にとって、独自のしかも独創的なスタイルを見つけることがいかに重要か。36歳の若さで死んだ彼が、時間と競争しながら実に様々なスタイルを試みている。それは見ていて痛々しいほどだ。(美術館HP)

絵筆をくわえて描いている星野氏の作品を集めた「富弘美術館」。ここでも、同じ発見をして妙に感動した。美の表現を求めて格闘する芸術家なら、誰でもそうなるのだろうか。(この話は次回に)
そういえば、美術館と言うのは、多くの画家が独自のスタイルを求めて格闘した足跡なのかもしれないなあ。

2006年6月11日(日)
地方美術館めぐり

緑深き群馬の山里に一泊の小旅行をして、美術館めぐりをした。
まずは、伊万里、鍋島の陶磁器蒐集では世界最大という
「栗田美術館」(足利市)。ここはすごい。次いで桐生市に移動し7500点の収蔵作品を持つ、日本最大の個人近代洋画コレクションの「大川美術館」(桐生市)を見る。
翌日はわたらせ渓谷鉄道に乗って、「富弘美術館」(みどり市)へ。ここは事故で首から下が麻痺した星野富弘氏が絵筆を口にくわえて描いた詩画を集めた美術館。それぞれに極めて濃密な思いのこもった美術館である。

特に、栗田英男氏、大川栄二氏という個人コレクターの執念が結実した「栗田美術館」と「大川美術館」は、一人の人間が一生をかけて成し遂げることのすごさを改めて実感させる美術館だった。

泊まったのは桐生市の山奥。桐生川の清流に山の深い緑が映えて美しかった(別掲写真)
翌朝はバスで駅に向かったが、駅に出るバスは一日2便。
不思議なことに乗ってくるのは全員お
年寄りの女性ばかりである。(右写真)
前日乗ったタクシーの運転手の話によるとバスは病院通いに欠かせないという。


わたらせ渓谷沿いの集落も、むしろ自然に侵食されがちのさびれ方で、ひっそりしている。気がつくと、山肌がそこかしこで竹の異常繁殖に覆われつつある
地方から日本を見る、ということをほんの少し体験した。

2006年6月9日(金)
投機社会への疑問

村上ファンド代表が逮捕された。それにしても、いけしゃあしゃあと都合のいい嘘をつきまくるものだ。こうした投機家の異常さをどういえばいいのだろう。

株などには無縁な私だが、以前から疑問に思っていたことがある。
一つは、村上ファンドのやり方。いつの間にか大量の株を買い占めてものいう株主として登場し、マスコミを使って相手企業を恫喝する。相手の経営者を無能呼ばわりして「もっと株は上がるはずだ」などと言って一般投資家を誘い込み、ますます値をつりあげて、いつの間にか売り抜ける。

含み資産などのある企業さえねらえば絶対失敗しない、こうした荒っぽい手法がまかり通っているのが不思議だった。
こんな儲け方は、上がったり下がったりの中で何とか利益を得ようとしている一般投資家たちの株式投資とは異質なものではないのか

もう一つは、誰が儲けているのか見えない、と言うことだ。総額4000億とも言われる巨額な金を村上ファンドに預けた投資家たちは、配当率20%、30%の莫大な利益を得ていると言うが、彼らはその利益に関してきちんと税金を納めているのだろうか?(それとも税金は納めなくてもいいのか?)
それこそ額に汗して働いて税金をもっていかれる庶民からみると、匿名投資家たちはルールを守っているのか、という素朴な疑問が起きてくる。どうも投資家の実態はベールに包まれているのではないか。

6月7日には、泥縄式の金融商品取引法が成立したが、これがこうした素朴な疑問にどれだけ効力を発揮してくれるのか、私には分からない。

以前、劇作家の山崎正和氏が新聞に書いた「拝金主義 文明社会の堕落」の中で、投機家が必然的に陥る人間不信について書いていて新鮮だった。
私も本当は、そういう本質的なところにまで考えを進めてみたいのだが、最近は時間がなくて(能力もだが)なかなか核心に及ばないなあ。

2006年6月5日(月)
ある予感

小学生の殺害や成金ファンド代表の逮捕など、毎日、嫌なニュースが続ている。

去年9月の「9.11選挙 国民が選んだ4年間」にも書いたが、今の小泉首相はすっかり燃え尽きて、自分の意にかなった後継者を据えること以外に何の興味もなさそうだ。結局のところ、小泉改革の5年間に日本は何を得て、何を失ったのだろうか?

規制緩和を利用した株の買占め屋や、国民負担の医療制度で儲ける年収8千万とか1億とかの美容整形医師や歯科医師が自慢げにテレビに登場する一方で、タクシー運転手や長距離トラック運転手たちは規制緩和で、夜寝る間もなく働いても年収3百万そこそこの生活を強いられている。自殺者も年間3万人!を越えたまま一向に減る気配がない。

一つだけ言わせて貰えば、表では小泉改革による景気の回復が喧伝される一方で、裏では得体の知れぬ闇の世界が深く広がりつつあるということである。社会を律してきたルールが規制緩和で消えてなくなり、無法地帯が広がったせいだろう。
小泉改革は既存の利権を壊した代わりに、新しい利権の闇をも生み出した。そして政権交代を機に、その闇の世界がまたぞろ甘い汁を求めて、表の政治家たちとつながろうとしている。そんな予感がする

このところの検察の摘発は、これを放置すれば表と裏の世界が一体になってしまうという危機感の現われかもしれないが、それにしては政治家の一歩手前ですべての案件が処理されているのはどうしてだろう?

2006年6月3日(土)
ブログの達人たち

いずれまとめて、ネットジャーナリズムの可能性については考えてみたいと思っているが、今日は暇があると時々覗いているインターネット上のサイトを運営している「ブログの達人たち」について。

現在マスコミが騒いでいる村上ファンドの問題については、「きっこの日記」(6月2日分)が面白い。盗作騒ぎの和田とか言う画家に対する罵倒ぶりも小気味いい。このブログはもちろん有数のアクセス数を誇る有名ブログではあるが、(正体不明で、真偽のほどは分からないが)結構ぎょっとする情報が書かれている。インサイダー取引の疑惑についてはもう数ヶ月前から出ている。

日本の防衛問題については「J−RCOM」が専門家筋からも注目されて影響力を持っているらしい。禁酒についての日記も人間味があって読ませる。
国際情勢については、ちょっと深読みでついていけないところもあるが、こんな見方もあるかと参考になるのが「田中宇の国際ニュース解説」。
書評やネット技術については橋本大也の「情報考学 Passion For The Future」。

ほかにも、私の「お気に入り」には、この手のブログやHPが30ほどリストアップされているが、こういう情報を見ていると、今のマスコミのニュースがいかに警察や国会や企業などの発表物に頼った表面的なものであるかが分かる。

その上始末に悪いことには、表面的なものを面白くするために、「きっこの日記」の指摘じゃないが、天下のマスコミがこぞってホリエモンの留置所での食べ物、読んだ本などの瑣末な情報を競って追いかけることになる。その陰で巨悪の本質が見逃されている。

まあ、国民総表現者の時代にあって、こうしたブログの陰の部分もないことはないが、それはいずれ考えるとして、時代の中で一つの機能を果たし始めているとはいえるかもしれない。

2006年5月20日(土)
テロ事件以後の世界

2001年の同時多発テロ事件の背景および、あの事件がその後の世界をどう変えたかについては、5年経った今でもその全貌は明らかになっていない。

アメリカは事件後、全世界を舞台とした永続的な「テロとの闘い」を掲げて、アフガニスタン、イラクなどとの戦争を起こし、イスラム原理主義を共通の敵とする名目でロシア、中国、パキスタンなどとの新たな国際関係を作った。
国内では、事件を契機に新設された国家安全保障省による盗聴や民主主義の抑圧が進んでおり、これは警察国家一歩手前の状況だと言う人もいる。

「テロとの闘い」によってもたらされた世界の変化は、実はアメリカのある勢力(ネオコン)が前々から主張し、望んでいた変化と合致しているという。(「アメリカ以後」田中宇)
その辺から、あの事件はアルカイダ単独の犯行ではなく、アメリカの勢力によって事前に仕組まれ、黙認されていたと言う説が出てくるのだろう。
(真珠湾攻撃がアメリカ参戦の口実を探していたルーズベルト大統領によって黙認されていたとする説と同じである)

確かに、今は「テロとの闘い」を持ち出せば民主主義を制限する政策まで何でも通る時代ではある。今日本で問題になっている「共謀罪」も、テロ対策として持ち出されたものだ。
事件が仕組まれたものかどうかは別として、それを利用して自分たちに都合のいいように社会を変えようとする勢力は必ず出てくる。

2006年5月16日(火)
藤田嗣治と靖国

先日、東京国立近代美術館で「藤田嗣治展」を見た。大勢の人々に混じって、パリ時代のあの有名な乳白色の人物像を鑑賞した。
間近に見て感心したのはやはりその絵のうまさ(当たり前だが)。特に、人物像の周囲や背景に描かれた、壁のしみ、机や柱の質感、タピスリーの模様、灰皿や吸殻などなどのディテール。その細密画のようなすごさが、あのモノトーンに近い肌色の量感を支えている。

さらに、彼が戦時中に描いた「アッツ島玉砕」「血戦ガダルカナル」「サイパン島同胞臣節を全うす」などの戦争画の大作もあった。戦後になって彼は、この作品のために理不尽な非難を受けたというが、その巨大な絵の前に立つと、戦争の現実が圧倒的な迫力で押し寄せてくる。

続いて私が訪ねたのは、歩いて20分ほどの靖国神社。話題の戦争歴史展示館「遊就館」を観ておこうと思ったからである。
その展示内容の感想はいずれちゃんと書きたいと思っているが、見終わってふと頭をよぎった思いがある。それは、あそこに藤田嗣治のあの戦争画の大作があったらどうなのだろうか、ということ。
そしてもう一つ。広島原爆慰霊碑の「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という言葉は、おびただしい数の兵士の遺影が並ぶ、あの「遊就館」にこそふさわしい言葉のような気がしたのだが。

2006年5月13日(土)
覚えているうちに

夕食時のテレビでは殺人事件のニュースをやっていた。見ていたカミさんが唐突に、「そういえばあの!何だっけ、」と言い出した。
「野球の、ほら有名なあのっ…」
「何よ」と娘。
「松井が骨折したんだって!」
「知ってるよ、でも何でいま松井が関係あるの?」たしか、テレビでは殺人事件のはずなのに。
覚えているうちに話しておかないと。

カミさんも物忘れが気になっているらしい。娘は涙を流して大笑い。笑われたカミさんは悔し紛れに
「ニュースの時間なんだからいいじゃない」

舌先まで出掛かっても固有名詞が思い出せない現象を、認知心理学的に「舌先現象」と言うそうだが、それを恐れて、覚えていることを意味なく持ち出す現象は何というのだろう?
そういえば我々夫婦の会話も、最近は自分が思い出した話題を勝手に言い合っているだけのような気がするなあ。

2006年5月5日(金)
なぜ「あれ」が?

風薫る五月。近所のお寺の大きな「くすのき」が新緑の葉をつけて輝いている。関東以南の海岸に自生する木で、かつて訪ねた若狭海岸には見事な「くすのき」の群生があり、春には独特の花の匂いを漂わせていた。

ところが、昨日その大木を見たとき、その名前が思い出せなくて悲しくなった。このところ特に植物の名前が思い出せない。春に庭に咲く「ムスカリ」、「ライラック」、「鉄線」などの名前がどうかすると頭から消える。年に一回の花だからだろうか?
「くすのき」は、その後ひょいと思い出したが、名前が出てこないもどかしさは天を仰ぐ思いだ。
記憶の呼び出し回路に何か不具合が起きているのだろう。

というわけで、人間の記憶の不思議を書いた「なぜ、“あれ”が思い出せなくなるのか〜記憶と脳の7つの謎〜」を読んでいる。老境の悩みと言うものは考え始めると尽きない。これも「未知との遭遇」の一つなのだろう。

2006年4月29日(土)
長寿の遺伝子

今年80歳の大先輩と久しぶりに食事。たっぷり3時間、話を拝聴した。とにかく元気。海外も含めて各地を飛び回り、人間味溢れるドラマチック人生を送っている。
縦横無尽、エピソード満載の話が面白すぎて、こちらはただただ感心して聞くばかり。昼食だけで
4時間、話を聞いたこともある。

100歳でモンブランをスキーで滑り降りた三浦敬三さん、95歳でホスピス設立に走り回る日野原重明さん、先輩の父君も100歳まで生きた。生活環境とか運動とか心の持ち方も大事だろうが、本当は遺伝子に違いない。

長寿の遺伝子を持った人たちは楽々と75歳を越えて放って置いても90歳、100歳になる。そうでない普通人は健康に気をつけて頑張ってやっと75歳を越える。健康に気をつけない人は確実にその前に死ぬ。
私の場合は...
「定年後の体と心」で、そろそろ「終末=死についての考え」の一回目を書き始めなければと思っているところ。

2006年4月17日(月)
桜幻想紀行

2日間にわたって、木曽路、高遠、下呂温泉などを回って遅咲きのを堪能してきた。
中部地方の山里は今が花の盛り。桜たちは静かに人間世界の騒ぎなどそ知らぬ風情で、ただただ懸命に咲いている。
天候にも恵まれ、真っ青な空のもとに咲く満開の桜を見ていると、つくづく日本人だなあと思う。(写真

圧巻は、下呂温泉近くの
夜桜。樹齢400年、樹高30メートルの巨樹(2本)がライトに照らされて水を張った田面に映っている。
「苗代桜」と言うのだそうだが、真っ暗な山すそにまばゆく輝くそのは、神々しいような幻想的な姿だった。(こちらは残念ながらデジカメには写らず)

   桜花 ふかきいろとも 見えなくに ちしほにそめる わがこころかな
                                        
(本居宣長)

2006年4月9日(日)
いま政治を考える理由

民主党の代表選挙。(4月7日)
私としては、
理念と政策による政治を主張した小沢演説を評価したい。うまくすれば、ようやく政策本位の政治が見られるかもしれない。
そこで、「政党・国民にとっての役割とは」に続いて次回は「政党・政策の対立軸とは」を考えたい。


政治に全くの素人の私が何で?と我ながら時々おかしくなるが、あえて言えば。
まず、今の日本はいろんな意味で「時代の転換点」に差し掛かっていると思うのだが、日本の運命に関わるその意味を、できるだけ明快に読み解きたいということ。
その上で、様々な政治選択、つまり「政治に何を託すのか」を考えたい、ということだろうか。


これからは今迄以上に政治が日本の運命を左右する、厄介な時代に入りそうな予感がする。私の場合は素人なりに、できるだけ一市民の立場から考えていくということだろう。

ホームページ制作日誌、発想の種まき、老後の雑感、折に触れて見つけた言葉を。

日めくり一覧

(05年〜06年)