日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

政治の空洞化が日本を覆う 22.9.22

 岸田政権発足から間もなく1年が経とうとしているが、ここへ来て内閣支持率の低下が止まらない。想像しうる要因は以下のような点だろう。一つは、元首相が倒れた直後に、殆ど議論らしい議論もなく閣議決定だけで国葬を決めたこと。しかも、その死をきっかけに自民党といわく付きの旧統一教会の腐れ切った関係が明るみに出始め、その中心に安倍がいたことも見えて来た。そうした人物を何故国葬にするのかと言う反発。さらには、アベノミクスのマイナス金利で身動きがとれずに、円安によるインフレが庶民の暮らしを直撃していることである。

◆白昼夢のような岸田ビジョン
 そして、それ以上に国民が感じているのは、岸田の政治家としての資質に対する期待外れではないか。まず、大きな問題が起きているのに、自分の言葉で国民を説得できない。役人が書いたような文章を読み上げるだけで心が伝わらない。菅前首相の説明能力も貧弱だったが、政治家としての練度が感じられない。さらに問題なのは、岸田に中身はあるのかという疑念である。政治信条や政治理念といった政治家に欠かせない大事なものが岸田に見えないのである。ここへ来て、そうした岸田に感じる空虚さ、中身のなさが一気に露見したのが大きいのではないか。

 一体、岸田は何がやりたくて政治家になったのか。岸田が総裁選に当って出版した「岸田ビジョン」なるものを読んでみたが、そこではタイトルに「分断から協調へ」を掲げ、アベノミクスの反省や新自由主義経済からの転換、中間層を底上げするための施策、高額な金融所得への税率の見直しなどの「新しい資本主義」を謳っている。しかし、いざ首相になったとたんに、金融所得への課税はどこかに消え、新しい資本主義も一向に姿を現さない。むしろ見えて来たのは、安倍時代のような保守層向けの「分断政治」である。まるで白昼夢のようなビジョンである。

◆政権延命のための分断政治
 焦って国葬を決めたのも、保守層右派の(理屈はいいから、早く決めろという)声に押されたからだというし、脱炭素を議論する8月24日の会議(グリーントランスフォーメーション実行会議)で、突然従来の政府方針を転換して、原発の再稼働はもちろん、原発の新増設にも踏み込んだのも、保守層や経済界の要求に応えるためだ。防衛政策でも、敵基地攻撃も含めてあらゆる方策について議論すると言っている。毎日の与良正男の記事(9/14)に拠れば、岸田は右翼月刊誌「Hanada」での対談にも応じ「憲法改正宣言」をしている(12月号)。よほど保守層右派が気になるらしい。

 岸田がやろうとしていることと言えば、最大派閥の旧安倍派の意向を忖度する人事や国葬、経済界や保守層に配慮した原発新増設や敵基地攻撃の検討など、国民の間に新たな分断を呼び起こすテーマばかり。そこに彼が掲げた「分断から協調へ」の精神は見当たらない。これまでの安倍自民党がやって来たのは、国家主義的な政策で岩盤支持層(保守層右派)を固め、経済政策で票を上乗せして過半数を抑える戦術だった。政権維持のために、国民の間に敢えて分断を作ることも厭わない。岸田もそんな分断政治を踏襲して行くつもりなのだろうか。

◆歴史を踏まえない突然の方向転換
 原発について岸田は、「岸田ビジョン」で「将来的には、洋上風力、地熱、太陽光など再生可能エネルギーを主力電源化し、原発の依存度は下げていくべきというのが私の考えです」と書いている。それは自民党の表向きの意見でもあったが、陰では党内の原発推進派や経産省がしきりに再稼働、新増設を訴えていた。岸田はその声に押されるように、参院選が終わったとたんに、ウクライナ戦争によるエネルギー事情と脱炭素を口実に原発政策の転換を図ろうとしている。原発の再稼働を加速させ、原発の新増設にも踏み出そうとしている。

 勢いづいた原子力ムラは、運転期間(原則40年、限度60年)の見直し、新型炉の開発も議論に乗せ、福島原発事故以来の停滞を打破しようとしている。しかし、こうした議論は、どれだけ事故の教訓を踏まえているのか。どれだけ核燃料サイクルの行き詰まりを踏まえているのか。地震大国で原発を維持する危険性、向こう100年経っても終わりそうもない廃炉と膨大な費用「廃炉という幻想」)、建設開始後30年近く、3.1兆円をつぎ込んでもまだ完成しない再処理工場、高レベル廃棄物の処理地も見つからない現状。こうした歴史と現状を岸田はどの程度踏まえているのか。

◆岸田に政治信条、理念はあるのか
 以前のコラムで原発は無防備な「裸の核」だと書いたが、まさにウクライナ戦争では、原発が敵の標的になる現実が浮上した。その「裸の核」が北朝鮮の目と鼻の先に並ぶ日本である。テロ攻撃対策を取り入れるとしている日本の原発も、最新のサイバーテロには耐えられるのか。ウクライナ戦争の影響で夏場と冬に日本が抱える電力危機は、この10年、原子力にこだわる日本が再生可能エネルギーの普及に無策だったツケでもある。目前の危機を回避するために歴史的経緯を忘れ、原発問題の本質に目を向けないとすれば、政治家としてどうなのか。

 もちろん、目の前の事象に機敏に手を打つのも政治家として大事なことだが、その事象がどういう歴史的経緯で起きているのかの本質を踏まえなければ、それはその場しのぎの対応と変らない。ガソリン代の手当とか、低所得層に5万円を配るとか、小麦の輸入価格を据え置くとか、岸田がやっていることは、総じてこの類いに見える。それよりも、国民が知りたいのは、岸田がどういう政治信条、政治理念を持って日本に貢献しようとしているのかである。岸田にはそれがあるのか、ないのか。自民党が国会を軽視して来たために、国民はこうした大事な議論からも遠ざけられている。

◆空疎な政治家と日本の空洞化
 安倍元首相の政治理念は、一口に言えば日本を強い国(戦争に負けない国)にすることだったかも知れない。それはどこまでもアメリカと一体になって、仮想敵(例えば中国)と対峙することだった。そのために、共謀罪、集団的自衛権などを閣議決定し強行採決して、アメリカに追随してきた。しかし、これは一部の保守層右派(例えば反米保守)が目指すものだったのかどうか。むしろ、その実体を隠すために、自主憲法という右派が求める旗を掲げ続けて来たのだろうが、その実体はみせかけで、本来の保守から見れば空疎なものだったかも知れない。

 その安倍がいなくなった今、岸田の中身のなさはもちろん、自民党の空疎ささえも隠しようがなくなったというのが、作家の赤坂真理である(9/20朝日国葬考)。今、岸田の代わりに自民党のどんな政治家が思い浮かぶだろうか。誰も思い浮かばない。加えて、自民党に代わる勢力も見あたらない。その中で、これからの日本は、地球温暖化、米中の覇権争い、ロシアの戦争、コロナの後遺症といった人類的課題、そして安倍の負の遺産(アベノミクスの後遺症、膨大な借金、国民の分断)にも立ち向かわなければならない。この時代の大転換期に日本の政治的空洞化は、まさに国家の危機と言える。

◆国を覆う空洞化の先に何が?
 安倍の負の遺産はもう一つある。それは一強状態をいいことに、国会審議を徹底的に封じ込めたことである。憲法に決められている野党の国会開催の要求も無視する。閣議決定を多発して、後は機を見て審議打ち切りと強行採決に持ち込む。一連の不祥事にも関係者を出さない。何かと言えば「国難突破」と称して解散するので、落ち着いた議論も出来ない。先進国で国会の会期が今のように短いのは日本くらいで、ドイツやイアタリアは通年会期だという(「政治を再建する、いくつかの方法」)。そういう意味で、日本は国会も空洞化している。

 安倍という仮想の重しがなくなって、政治の空洞化が日本を覆ったとき、そこにどのような事象が出現するのか。何かとんでもないことが起きないように、すっかり影の薄くなった国会やメディアが政治を監視する機能を発揮出来るかどうか。そういう難しい時代に入ったことだけは、認識しておく必要があるように思う。

数字の背後にある死の無残 22.8.30

 今年77年目を向かえた敗戦記念日の前後に、NHKは「2022年夏 いま、戦争と平和を考える」と題して、多くの戦争関連番組を放送した。ニュースで戦争が身近になり、人々の命と暮らしが脅かされる状況で、戦争の悲惨さを丹念に拾い上げる作業が今も続いている。独裁者スターリン(或いはナチのアイヒマン)が「一人の死は悲劇だが、100万の死はもはや統計である」と言ったという話もあるが、戦争における膨大な戦死者の数の背後にどんな無残や無念があるのか。こうした地道な発掘作業を続けなければ、それは単なる統計に過ぎなくなる。

 日本が1941年に始めたアジア・太平洋戦争では、日中戦争も含めて軍人・軍属230万人、外地の一般邦人30万人、空襲や原爆などによる国内の戦没者50万人の合計310万人の日本人が犠牲になった。吉田裕(一橋大特任教授)の「日本軍兵士〜アジア・太平洋戦争の現実」は、こうした膨大な数字の裏にある、戦争の無残な実態を、各種研究を読み込みながら分析したもの(後述)だが、今年のNHKスペシャル「ビルマ 絶望の戦場」(8/15)もまた、数字の背後にある、さらに生々しい現実を新たな資料の発掘と証言で明るみに出していた。

◆NHKスペシャル「ビルマ 絶望の戦場」
 太平洋戦争中、最も無謀な作戦と言われたインパール作戦(1944年3月〜7月)は、イギリス軍の反撃に遭って退却する際、飢えとマラリアなどで3万人の戦死者を出した。白骨街道とも呼ばれるその悲惨な状況は、5年前のNスペ「戦慄の記録 インパール」が取り上げたが、今回はその後に続く終戦まで1年間のビルマ(ミャンマー)での記録である。インパール作戦を含むビルマでの戦死者は16万7千人に上るが、そのうち8割はこの最後の1年間のものだった。絶望的な戦況の中で、なお戦いの継続に固執する軍中枢が生んだ悲劇である。 

 イギリス軍は日本軍を追って首都ラングーン(今のヤンゴン)に迫ってくる。兵士達は武器も食料も足りない中で、雨期のぬかるみに足をとられていく。それでも降伏することを知らない10万を超える日本軍は絶望的な抵抗を続け、次々と倒れていった。ところが1945年4月、驚くべき事にラングーンにあったビルマ方面軍の司令部は、日本兵と現地邦人を置き去りにしてタイに撤退してしまったのである。ラングーン陥落後、取り残された人々はついに最後の望みとしてタイに撤退するために幅200メートルのシッタン河を筏と小舟で渡ろうとした。

◆戦死者16万7千人の背後の現実
 その時既に、日本軍は飢えとマラリアで殆ど体力も尽きかけ、絶望から自決する兵士も相次いだ。川は雨期で増水していた。しかも、その渡河を事前に察知していたイギリス軍に迎え撃たれ、溺死と銃撃で1万9千人が死亡。死体が川を埋めた。戦後のイギリス側の聴取に当時の日本軍司令官は、自分たちがタイに撤退した後でビルマの日本軍は全滅するだろうと予想していた、などと無責任に答えたという。イギリス側の記録には、「日本軍には間違いを犯したことを認めない“道徳的勇気の欠如”という根本的な欠陥があった」と記されている。

 ビルマ戦における最後の1年の詳細は長い間、霧に包まれていた。番組は、かつてこの実態に迫ろうとした作家(故人)が残した(300人に上る)取材記録と兵士たちの録音、それにイギリス側に残る記録を発掘し、悲劇の実態に迫っている。現在、辛うじてビルマから生還した元兵士たちは、90歳半ばから100歳を超えている。番組は、そうした人々の最後の証言も取り上げた。不条理な作戦を強いられた戦場のむごさ、無残さを経験した証言。餓死や自殺、人肉食をも含む、殆ど戦争とも呼べないような、あまりに無残で無念な死の実態である。

◆9割を占める「絶望的抗戦期」の死の実態
 戦死者の数字の背後にあるこうした現実は、ビルマだけではない。上記「日本軍兵士〜アジア・太平洋戦争の現実」は、日本人の犠牲者310万人の9割はサイパン島陥落(1944年7月)後の1年間に発生したものだとする。敗戦必至となったにも拘わらず、戦争を止めることの出来なかった「絶望的抗戦期」と言われる期間である。その時、兵士たちはどのように死んでいったのか。驚くべき事に、その多くは戦病死と餓死である。戦争全体における統計がない日本で、著者は幾つかの研究例を挙げながら、全体の60〜65%が戦病死および餓死ではないかとする。

 この絶望的抗戦期に日本は制海権を失い、物資の輸送が不足し食糧もなくなっていった。餓死者は、本当の意味での餓死に加えて、栄養失調による体力の消耗にマラリア感染が重なって死亡する「広義の餓死者」も含めると半数以上という高率になる。その頃召集された兵士は体重も平均50キロに落ちていて、歩兵たちは体重の半分を超える装備を背負って移動しなければならなかった。しかも、その装備は劣悪で軍靴は泥道の中で破れ、裸足で行軍する中で凍傷にかかったりした。歯科医も殆ど配属されず、多くが虫歯に悩みながらの戦争だった。

◆数字の背後にある死の無残を知る
 これはもう、戦争と呼べるようなシロモノではない。日本軍は短期決戦の考え方と精神主義で戦争に突入し、補給、情報、衛生、輸送船の防衛などを軽視し、食料も現地調達(略奪)に頼った。その結果が、餓死、戦病死、自殺、他殺(虐待による死)が6割を超える実態。長期の総力戦という近代戦争の変化を無視した日本軍の末路である。しかも、東條英機が発した「生きて虜囚の辱めを承けず」(戦陣訓1941年)によって、日本軍は捕虜となることが出来ず、動けない傷病兵は自死するか、自軍に殺されるかしかなかった。絶望の中で降伏も許されない。

 著者、吉田裕がこのような戦争の凄惨な現実を見据える本を書いた一つには、近年の「日本軍はいかなる敵にも怯まず、御国の楯となって堂々と闘った」などという現実とはかけ離れた日本軍礼賛の風潮があったという。しかし、膨大な数字の背後にある死の無残、或いは死んでいった兵士の無念はそんなものではない。番組の中の元兵士の今に続く苦悩は、戦争の傷の深さを伝えている。同時に忘れてならないのは、日本が始めた戦争で2000万人のアジアの人々(中国だけで1000万人)が犠牲になっていることである。その膨大な数字の背後にも一人一人の無残で無念な死があった筈だ。

◆数字を単なる統計にしないために
 著者はこの他に、絶望的抗戦期になっても何故日本は戦争を止められなかったのか。陸海軍中枢の指揮命令系統の欠陥、内閣総理大臣の権限の弱さ、軍規の弛緩と退廃、異質な軍事思想などについても書いている。ビルマでも、前線の兵隊が絶望的な撤退を続けている間に、首都ラングーンの司令官達は夜な夜な日本人経営の料亭で芸者を上げていた(Nスペ)。その司令部は、ビルマの抗日戦線が一斉蜂起した1ヶ月後に、いち早く首都を脱出してタイに逃げてしまう。戦争は人間として大事なものを失わせる。それは、どの戦争でも同じである。

 上官の命令で、罪なき現地人を何人もスパイ容疑で殺さなければならなかったという番組中の老証言者は、今も仏像を彫って現地に送り続けている。為政者が始める戦争は、いつの時代にも膨大な数の犠牲を強いる。その殆どは前線に送られる兵士であり、無差別の攻撃を受ける市民である。「戦争だけはしてはいけない」という先の戦争の反省を噛みしめるために、或いは、「万難を排して戦争を避ける」という、戦後日本の国是(国ありかた)を再確認するために、戦争の現実を知らせる戦争関連番組はこれからも続いて行くだろう。

衰退日本は復活出来るかA 22.8.20

 前回のコラムに書いたように、かつて(1989年)世界上位100社に入る日本企業は53社もあったのに、30年後の2019年にはわずか2社に減ってしまった(トヨタが46位でトップ)。また、日本の製造業の生産性は2000年には世界1位だったのが、2018年には16位にまで急落している。この“墜落”のような衰退の間に、日本の企業に何があったのだろうか。どこで間違えたのだろうか。諸富徹(京都大学大学院教授)の著書「資本主義の新しい形」から、日本企業没落の典型的な例と、その対極にある海外企業と社会の革新的試みを見てみたい。

◆ものづくり日本の間違った信念
 諸富は、戦後の日本企業がものづくりにおいて、偉大な優位性を発揮し、世界市場の席巻に大成功して来たと言う。だが、「良いものを作りさえすれば、必ず売れる」という、供給側の論理に基づいた信念は、時としてハードな物的投資への偏重に陥り、消費者が真に望んでいるものを把握する姿勢の欠如につながった。その結果、労賃の安い新興国との底なし沼のような価格競争に巻き込まれ、優位性を失っていく。それに耐え抜くために日本企業は、ひたすらコスト削減で対処しようとした。老朽設備の更新を控え、中国などへの工場移転を図る。

 国内的には、賃下げやリストラ、労働者の非正規化で人件費総額を抑えてきた。2000年以降、企業の利益はようやく上向きにはなったが、その利益は主に富裕層である株主に配当され、所得格差の拡大を生む一方で、消費の中心的担い手である中間層の所得は増えなかった。それがGDPの6割を占める消費の低迷、成長の低迷につながっていく。企業の方も内部留保を溜めるばかりで、新しい時代に適応する新規の設備投資や人的投資に慎重で、従来のものづくりの形態を変えなかった。日本企業は新しい時代のビジネスモデルの構築に乗り遅れたわけである。

◆アメリカ・アップルに見る変化
 対照的に、資本主義の新しい潮流(諸富はこれを「非物質的資本主義」と呼ぶ)に乗った製造業の形がどんなものか。一例として諸富があげるのはアメリカのアップルである。経済のグローバル化が進む中で、彼らは事業の再編を進め、何を国内に残し、何を海外に任せるかを決めたという。現在のアップルは国内に工場を持たず、iPhoneを製造しているのは中国(写真右)、台湾、日本など東アジアの企業だ。アップル本体は、製品開発、デザイン、ビジネスモデルの構築、知的資産の創出とその権利保護、グローバルな製造・販売チェーンの構築とその管理に集中している。

 これは、旧来の製造業のイメージと大きく隔たっているが、何より、顧客が持つ端末から得られる大量の情報を収集・分析して顧客の嗜好を正確かつ迅速につかみ、それに即応した新しい製品・サービスを次々に打ち出すことで優位を占めてきた。彼らが目指してきたのは、製造業と知的産業のハイブリッドのようなもので、大事なのはもはや工場のような物的なものではなく、知識を創出する人材と組織、経営体制のような「無形資産」である。これが資本主義の非物質化だが、ここまで極端ではないにしても、日本はこの認識が完全に遅れたと諸富は言う。

◆資本主義の非物質化を支える無形資産
 物質的なものに非物質的要素が付加されたり、製造業がサービス業と融合したりするこうした変化は、実は広範囲に起きている。消費者の求めるものがモノそのものから、モノで生み出される非物質的な価値やサービスへと移行し始め、それに答える新しい経済が生まれている。単にモノを作って売るだけでなく、その先に消費者のニーズに応えるどのようなサービスが広がるのか。車で言えば、メンテナンスやカーシェアリングの試み、ウーバーのような配車サービスも非物質化の一例だが、そこに経済成長のチャンスが広がってきたのである。

 ただし、そうした顧客のニーズを把握し、新たなサービスにつなげていくためには、「無形資産」への投資が欠かせない。それはつまり、新しいアイデアとイノベーションを引き出す環境、経営戦略、世界的ネットワーク、そしてそれを支える制度構築と人的投資である。これらの厚みが企業の競争優位を左右し、ものづくりの先に何倍にもなって広がる非物質的なビジネスが、成長を牽引するようになった。日本がものづくり至上主義に陥っている間に、この「資本主義の非物質化」の可能性に気づいた社会と企業が今や成長の波に乗り始めたわけである。

◆無形資産を充実するための政策、人的投資
 では、企業の競争力を左右する「無形資産の充実」には、どんな政策が必要なのか。端的に言えば、その一つは人的投資である。欧米先進国企業は今、必死で新しいアイデアとイノベーションを生み出す人材を集め、育成している(写真はアップル本社)。それによって社会全体の一人当たりの生産性が向上し、経済も成長する。これを政策として掲げる国も多い。例えば、スエーデンなどは労使が同一労働の賃金の中央値を決め、それを払えないような生産性の低い企業から、生産性の高い企業への労働者の誘導を図っている。その時に用意するのが、手厚い人材教育である。

 生産性の低い企業にカネをつぎ込んで延命させることはせず、「人は守るが、企業は守らない」という政策だ。スエーデンで言う「同一労働、同一賃金」は、日本のように正規と非正規の労働者の賃金格差を是正するというものではなく、産業部門の違いを超えて同じ労働に対して同じ賃金が支払われるべきとするものだが、その結果、社会全体では生産性の高い優良企業が増えていく。詳しくは本文を読んで欲しいが、生産性の低い企業も残すために最低賃金を、たった30円上げることに精力をつぎ込んでいる日本とは大きな違いである。

◆「同一労働、同一賃金」と「カーボンプライシング」
 一方、「資本主義の非物質化」は、モノに依存する経済の割合が減るだけに、これからの産業に欠かせない脱炭素化への動きとも合致していると、諸富は言う。産業のデジタル化、サービス化、知的集約が進み、産業の中心が無形資産的な産業に移ること、CO2を劇的に減らす製品、サービスの開発が進展して、価格的にも優位になること。これら脱炭素化の動きを促す政策が、生産の過程で排出されるCO2に課税する「カーボンプライシング(環境税)」の導入である。これが、経済の非物質化を促すと同時に、脱炭素へのイノベーションを加速させる。

 以上の「非物質化」と「脱炭素化」は、日本経済の二大課題でもあるが、アベノミクスで市中に金余り現象を作り出しても、日本企業にはこうした新たな成長の方向性が見えず、何に投資していいか分からず、社内留保と老朽施設を抱えたまま今に至っている。これを変えるポイントとなるのが「同一労働、同一賃金」と「カーボンプライシング」とすれば、これはもう政治の出番しかない。これは、アベノミクスのような金融政策では解決できない経済の構造転換であり、それのためには、過去の成功体験に縛られない新たな潮流を海外に学ぶ必要がある。

◆岸田はまだ古い資本主義
 岸田の「新しい資本主義」は前回書いたように、アベノミクスに遠慮して尻つぼみ状態だが、諸富(写真)は岸田の経済政策については、まだ「古い資本主義」だと言う(5/17朝日オピニオン)。お題目として「人への投資」や「デジタル化」も並んではいるが、3年間で4千億の人材教育などは、真に世界の潮流を意識したものなのかどうか。まして、産業の構造転換の鍵となる、革新的な「同一労働、同一賃金」や、「カーボンプライシング」となると、産業界の強い抵抗が目に浮かぶだけに、岸田にこうした改革(処方箋)に挑戦する胆力はあるかが問われる。

 スエーデンの人口は1020万人だが、同様の革新はフィンランドやドイツでも、或いはアメリカや中国の一部企業、コマツのような日本企業でも進んでいる。日本は世界の潮流に学んで内向きを脱し、大胆に革新することが出来るかどうか。さもないと、衰退日本の復活はますます遠のくばかりのように思える。 

衰退日本は復活できるか@ 22.8.12

 8月10日、第二次岸田内閣がスタートした。会見で岸田は新しい内閣について、新型コロナウイルスの感染拡大やロシアによるウクライナ侵攻とエネルギー危機、緊迫化する台湾情勢など、日本を取り巻く様々な有事を列挙し、これら数十年に一度の難局、有事に対応するための『政策断行内閣』と位置づけた。その上で、政策の目玉として、防衛体制の強化、経済安全保障、新しい資本主義、コロナ対策、子ども政策の5つを上げたが、重要政策の一つである「新しい資本主義」については、これまで岸田の迷走ぶりが様々に指摘されて来た。

◆迷走する岸田の「新しい資本主義」
 岸田が「新しい資本主義」を持ち出したのは、去年9月の総裁選の時である。小泉改革以後の新自由主義的な経済から脱却して、成長と分配の好循環によって中間層の拡大を目指すとした。企業に賃上げを促し、財源確保のために富裕層へ金融所得課税にも言及したが、金融所得課税は市場に不評で株価が下がるなどしたためにすぐに引っ込める。その後の「骨太の方針」策定でも迷走が続き、ついには、眠っている富裕層の貯金を投資に回す資産所得倍増政策や、財政健全化の議論で積極財政派に妥協するなど、次第に当初の岸田色は薄れていった。 

 去年11月の「新しい資本主義実現会議」の緊急提言については、新聞ファイルの見出しで、「岸田色見えぬ経済ビジョン」、「成長戦略新味少なく」、「新しい資本主義変質 旧来型に回帰」、「強まるアベノミクス回帰」などと叩かれて来た。この間、アベノミクスの否定につながるような議論に盛んに異議を唱えてきたのが、積極財政派の安倍元首相たちで、「日銀は政府の子会社」、「お金は幾らでも刷ればいい」などと言って財政規律を目指す岸田を牽制してきた。安倍亡き後も、こうした一派は「元首相の遺志だ」と攻勢をかける構えである。

◆アベノミクスにかまけているうちに
 しかし、出口も見えないまま大規模金融緩和、積極的財政出動を10年も続けて来たアベノミクスについては、ますます化けの皮がはがれて評判が悪い。最近の急な物価上昇は円安やウクライナ戦争の影響であり、当初に黒田日銀が目指した2%の物価上昇、2%の経済成長は、全く達成出来ていない。加えて、実質賃金はマイナス状態が続き、経済格差は広がる一方。低所得層が物価上昇の影響をもろに受ける状況である。借金で組む予算も拡大一方で、1千兆円を超える国の借金をどう返していくのかも、将来世代に重くのしかかる問題となっている。 

 より深刻なのが、アベノミクスにかまけているうちに進行した国力の低下である。GDPでは世界3位だが、低迷する成長で一人当たりのGDPでは6位に転落、平均賃金ではOECD加盟35ヶ国中22位、韓国にも追い抜かれた。2000年には世界1位だった製造業の生産性では、2018年に16位に急落している。「失われた30」とよく言われるが、かつて(1989年)世界上位100社に入る日本企業は53社もあったのに、2019年にはわずか2社に減ってしいまった(トヨタが46位でトップ)。これは“墜落”と呼ぶに相応しい急落である。

◆モノづくり日本の現在地
 以上は、大規模金融緩和で金余り現象を作ったにもかかわらず、適切な投資先が見つからないほどに企業の改革も革新も停滞していた証左だが、その結果を科学技術の面でもう少し見てみる。文科省が最近発表した「注目度が高い科学論文数」で、日本は上位10ヶ国から転落して12位。スペインや韓国に追い抜かれた。1位は躍進めざましい中国である。また、2019年のコンピュータサイエンス学科のランキングでは、日本トップの東大が世界の134位(総合でも74位)に低迷。日本の学術研究水準は、先進国の中で最低レベルになっている。

 こうした凋落を反映して、お家芸だった半導体、家電、パソコンといったモノ作り企業も、気がつけば海外に追い抜かれ、シェアを奪われている。脱炭素の太陽光パネルや風力発電、ドローン、人工知能などで日本は周回遅れか、撤退に追い込まれている。女性研究者も少なく、海外のデータで、国際的な人材にとって魅力的な国のランキングは、日本は34位。国内ではなかなか気づけないが、海外から見た日本は、一頃の活気ある姿が消えて久しい。これでは、「世界の真ん中で輝く」(安倍)などと幻想を振りまいても、独りよがりに過ぎないわけである。

◆「新しい資本主義」の尻すぼみ
 この“墜落”とも言える国力低下を招いたのは、過去の成功体験に安住して新規事業に乗り出さなかった企業側の怠慢もあるが、一方で適切な経済政策をとらず、アベノミクスで見せかけの繁栄を演出してきた国の無作為も大きい。こうした現状を直視しているのかどうか、6月7日、岸田政権は「経済財政運営と改革の基本方針2022」(骨太の方針)を発表。成長と分配の好循環を目指すとした。個々の政策としては、大学改革やベンチャーと既存企業を結ぶ政策(オープンイノベーション)、デジタルによる地方活性化などが並ぶ。

 しかし、これらについても目新しいものはなく、「分配より成長重視」とか、アベノミクスと変らない(修正版アベノミクス)などと酷評されている。具体的になるともっとチマチマしている。NISA拡大による資産所得倍増、出世払い奨学金の導入、若い世代の結婚の引っ越し費用や家賃の支援、原子力の最大限利用、アベノミクスの「3本の矢」を堅持などなど。本質を理解しない官僚の思いつきが並び、岸田が看板政策として掲げた「新しい資本主義」は、竜頭蛇尾、尻すぼみ状態になっている。

◆大学の研究支援に10兆円ファンド
 その中で、一つの目玉政策として発表されたのが、10兆円で「大学ファンド」を作るというもの。財政投融資などの政府資金を中心に10兆円の基金を作り、それの運用益で、選ばれた大学5〜7校の利益を生みそうな研究に年間数百億円ずつ配るという。これには幾つかの懸念も指摘されている。こうした財源(年間3千億円)を生むにはかなり運用リスクがあること、大学側にそんなに「稼げる研究」(3%程度)があるのか、或いはそれを目指すことで、基礎研究がおろそかになると言う指摘もある。

 先日の東工大と東京医科歯科大の統合計画もこの10兆円ファンドを当て込んだ動きだが、対象の大学(国際卓越研究大学)が、一部に限られるだけに大学格差が一層拡大する懸念もある。既に日本の研究現場は、「科学技術の揺らぐ足元」(18.11.5)に書いたように、大学の法人化などの影響で、有期雇用の研究者が腰を落ち着けて研究できない状態に陥っている。外国人研究者を引きつける魅力にも乏しく人材不足も決定的。この程度の大学投資で、日本の研究の底上げが図れるとは到底思えない。

◆「一人負け」の現実を直視することから
 「失われた30年の自画像」(2019.5.16)にも書いたように、バブル崩壊前の日本は、それこそ世界の真ん中で輝いていた。GDPでは、1位のアメリカを激しく追い上げ、株式時価総額で世界上位10社中7社、50位中では32社が日本企業だった。そして、東京取引証券所が世界最大の市場になっていた。それが、その後の30年で日本は「一人負け」の状態。日本はどこで間違えたのだろうか。その答えを探す前に、まずはアベノミクスの幻想などに囚われずに、目の前の現実を直視することから始めるべきだろう。

 そしてこれまでの無作為を謙虚に反省し、内向きの思考を離れて海外の成功例を研究することから始めるべきだろう。その意味で、最近読んだ本「資本主義の新しい形」が重要なヒントを与えてくれるので、次回は、革新を続けている世界と、乗り遅れた日本が遅れを取り戻す“処方箋”について書いて見たい。

非業の死を招いた政治腐敗 22.7.19

 それにしても、人間の運命は一寸先が見えない。奈良で安倍元首相が襲撃され死亡した事件では、安倍の運命は直前の週刊文春のスキャンダル報道で暗転した。応援演説で長野に入る予定だったが、自民党参院の候補者(松山三四六)の過去の不倫問題が暴露されたために、急きょ彼を見限って予定を変更。事件の前日に奈良に入って銃撃に遭った。急のことで警護体制も不十分、マイクとスピーカーの問題で選挙カーを楯にしない、あの形で演説するということになったらしい。安倍の運命の糸はあの時、瞬間的に銃撃犯人の糸と交錯したわけである。

 事件の衝撃があまりにも大きかっただけに、その後のマスメディアの報道は事件一色に。政治テロという意味で「民主主義の危機」が叫ばれ、安倍の業績を偲ぶ報道が延々と続いた。やがて容疑者が旧統一教会(世界平和統一家庭連合)に対する強い恨みから犯行に及んだこと、思想信条の理由からではないことが分かって来ると、建前的な「民主主義の危機」という言い方への疑問も起きてきた。私もその一人だが、事件の本質はむしろ、いわく付きの宗教と政治の驚くべき癒着や、それを長年許して来た政治の腐敗にあるのではないかと思えて来た。  

◆統一教会についての幾ばくかの記憶
 ご存じのように、事件の容疑者は旧統一教会に入信した母親を通じて、莫大な金を献金させられ家庭がバラバラに崩壊した。その額は1億円ともいうが、容疑者はその恨みから教会を襲撃しようとしたが果たせず、(応援メッセージを見て)教団とつながりのある安倍を標的に選んだという。もう50年以上前になるが、この統一教会については、私も幾ばくかの記憶がある。都内で大学生活を送っていたときに、時々訪ねて食事させて貰っていた近い親類が統一教会の信者だった。裕福な家庭だったが、主人の給料の多くを献金させられていたように思う。

 あるとき、その親類から教会の話を聞くようにいわれ、私は友人を誘って都内の教会事務所に出かけた。その時の内容はもうあらかた忘れているが、世界史の主な出来事がことごとく神の予言通りに起きていること、神の教えを信じなければサタン(悪魔)によって地獄に落ちること、家族に不幸が起きるなどと言われた。帰路、友人と歩きながらウブな私が「どうする?」と言ったら、友人は「オレは地獄に落ちてもいいや」と言って私の目を覚ましてくれた。その友人には今でも感謝しているが、その一言で、その親類からも足が遠のいたわけである。

◆なぜ最終的に安倍を標的にしたのか
 その親類夫妻は既に亡くなっているが、後に聞いたところによると「退職金までは納めなくていいと言われてホッとした」ということで、それまでに随分と多額の献金をさせられたらしい。山上容疑者の場合はさらに悲惨である。夫のDVなど様々な家庭的不幸(夫と長男は後に自殺)で追い詰められて入信し、献金を続けた母親も悲惨だが、愛する母親を教会に取られ、祖父の莫大な財産も奪われた山上容疑者も気の毒だった。彼もまた過去に自殺未遂を起こしている。そうした強い恨みを教団に向けていた山上が、なぜ最終的に安倍を標的にしたのか。

 奈良県警は8日夜の会見で、犯人は「特定の団体に恨みがあり、安倍元総理がその団体とつながりがあると思い込んで犯行に及んだ」という言い方で、教団の名を明かさず、また犯人が一方的に「思い込んで」犯行に及んだことを強く示唆した。マスメディアもそれに沿った報道を続けたが、週刊誌やネットはいち早く「特定の団体」が旧統一教会であること、「思い込んだ」レベルではなく、かなり確信的に安倍を襲撃したことを明らかにした。それは、旧統一教会を支援して来た岸元首相につながる安倍を襲うことで、教団に打撃を与えるためである。

◆銃弾が暴いた2つの闇
 それは周到に計算されていた。事件が旧統一教会がらみと報道されると、教団のいかがわしい実体と過去の悪事が一気に吹き出した驚くほど多様な顔(団体名)を持ち、日本の信者から莫大な金をかき集めて韓国へ送り、それを元に日本やアメリカで雑誌や日刊紙を作って超保守的な論陣を張る。特に日本では高価な印鑑、壺、多宝塔を売りつける霊感商法を用いた。これについては教団の責任が裁判でも確定しているが、その被害は今も続き、弁護士連絡会が教団追求と被害者救済に当っている。安倍襲撃事件は、こうした教団の「実体」を再び暴きつつある。

 もちろん、テロや暴力は許されるものではないし、「非業の死」を遂げた元首相の無念に内外の同情が集まるのも当然と思う。しかし、山上が起こした事件は同時に、(多分、犯人も想像しなかった)思わぬ「実態」も暴きつつある。それは、教団と政治家たちとの深刻な癒着の実態である。18日の「モーニングショー」(テレビ朝日)では、元参議院議員の有田芳生がこの30年ほど、旧統一教会の悪事が政治的に不問にされて来た“カラクリ”を解説していた。教団が多数の議員秘書を永田町に送り込んで、議員たちの抱き込みを図っていた実態である。

◆政治腐敗という民主主義の危機
 有田によれば、教団が永田町に送り込んだ議員秘書は私設、公設を含めて50人くらいに上る。かくして教団の息のかかった議員たち(今回の参院選で当選した安倍元首相の首席秘書官だった井上義行もその一人)が、教団の支援を受けたり、逆に教団へ応援メッセージを寄せたりして関係を深めてきた。特に2019年の第4次安倍内閣では、内閣と党幹部のうち12人までもが教団と深い関係を指摘されている。そうした政治家と教団のズブズズの癒着関係の中で、教団の数々の悪事が政治的に不問にされてきた30年は、「空白の30年」とも言われる。

 かつて日本の警察は、オウムの次は統一教会だと言いながら、取り締まりを止めたことがある。後に有田はそれが「政治の力、圧力」だったと聞いたという(モーニングショー)。それは、政治的に極右の主張を掲げる教団と、右翼的な政治家が癒着した闇の部分である。政治腐敗の闇は、その他にも教団の名称変更問題など色々あるが、山上容疑者の銃撃は、期せずしてこうした政治腐敗、政治の闇も明るみに出しつつある。安倍の「非業の死」の背景には、建前的な「民主主義の危機」とは別の意味で、政治腐敗という民主主義の危機があるわけである。

◆安倍政治の失われた8年
 安倍の死をうけて岸田は、間を置かずに国葬にすることを宣言した。しかし、そのように無批判的に安倍の業績をたたえていいのだろうか。安倍政治の評価については2年前の「安倍政治の失われた8年」に書いたように、むしろ弊害の方が大きかったというのが私の意見である。第一に、アベノミクスや改憲にかまけて、真に取り組むべき課題が全く進まず、日本が世界にたち遅れたこと。第二に、安倍の右派的政治によって国民の分断が進み、政治的に不寛容な状況を作ったこと。第三に、不祥事への忖度、政治腐敗、国会の空洞化(民主主義の劣化)が進んだことである。

 にもかかわらず、これから秋の国葬に向けてしばらくは、安倍の業績への賛美と彼の右派的遺志の尊重が声高に続くことになる。その一方で、今回の事件では安倍政治の8年によってすっかり骨抜きにされたマスメディアの劣化が一段と目立った。欲しい情報はネットからという時代に入った感がある。これから先、メディアは忖度報道を脱して、事件の背景にある、いわく付きの宗教と政治の癒着という「政治の闇」(政治献金など)に切り込めるか。また、岸田の方も「安部さんの遺志の尊重を」とばかり言わずに、宏池会本来の寛容な政治を目指していけるかどうか。

 内向きの政治と課題先送りが続いたこの10年あまり、日本は世界の先進的な取り組みから遅れる一方になっている。会長を失った最大派閥の旧安倍派は、分裂を避けるために影響力行使に必死であり、この先の政治は波乱含みだ。岸田政権は、安倍の遺志などに振り回されずに、本来の改革に踏み出せるかどうか。「死せる安倍、生ける岸田を走らす」ような政治にならないことを祈っている。

屈辱の平和か流血の正義か 22.7.6

 西側諸国の支援疲れが囁かれる中、武器の足りないウクライナ軍が東部で撤退を余儀なくさせられている。6月末にドイツで開かれたG7(主要7ヶ国首脳会議)では、ウクライナを「必要な限り」支援し続けるとし、また、戦争の終わらせ方についても、「外部の圧力や影響を受けることなく、将来の和平について決定するのはウクライナ自身だ」と宣言、ウクライナ支援で一枚岩でないG7の微妙な距離を確認した形だ。ゼレンスキー大統領の方はもっと武器をと訴え、「年内には戦争を終わらせたい」と述べたが、戦争の行方は不透明感を増している。

 今回の戦争については、当初からプーチンの誤算やロシア軍の劣勢、士気の低下などが報道され、加えてプーチンの足元での離反や健康不安説なども盛んに流されているが、一方でプーチンは自信を深めているという説もある。この先、彼の理不尽かつ残虐な戦争で日々悲惨な犠牲者を出しながら、ウクライナがどこまで耐えていくのか。ゼレンスキーは「奪われた国土を取り返すまで戦い抜く」と言うが、ウクライナ軍の中にも一部に脱走兵が出ているという。戦争の継続や和平を巡って、両国ともいよいよ厳しい選択を迫られようとしている。

◆「ゼレンスキーは英雄か」に対する批判
 そんな中、同じ新聞紙面(毎日、記者の目)で、2人の記者が戦争の見方について、それぞれ異なる意見を書いていて興味をひかれた。一方の「ゼレンスキーは英雄か」(6/4)では、「ウクライナ指導部が戦争を止める外交努力を怠った。ゼレンスキーは米露代理戦争に命と国土を提供している」とゼレンスキーを批判したのに対して、他方(6/29)は、ロシアの要求は、そもそもウクライナに属国になれというのと同じだった。属国になれば、(チェチェンやクリミアのように)親プーチン派以外は息を殺して暮らすか故郷を逃げ出すしかなくなると言う。

 そして、ウクライナ人の多くが徹底抗戦を支持してきた背景には「降伏すれば国や地域社会を破壊されるという危機感」があるからだとし、「米国批判や内外政治に関する持論の主張にウクライナ情勢を都合良く切り張りするのではなく」、地域の歴史的経緯と現地事情をもっと丁寧に学ぶべきだと、同じ社の記事を手厳しく批判している(*)。しかし一方、国際社会は今、国際法無視の戦争を始めたプーチンを懲らしめるために支援を続けるとしながらも、戦争の長期化による影響と日々大量の血が流れる現実に、困惑の度を深めているのもまた事実である。(*)批判された方は7/8の同じ「記者の目」でゼレンスキーはポピュリストだと反論(笑)

◆ウクライナはどこまで戦うのか
 ウクライナは何故戦うのか。多くの民族が覇権を争って興亡を繰り返した東ヨーロッパの歴史の中でも、ウクライナ人ほど辛酸をなめてきた民族も少ないかも知れない(「物語 ウクライナの歴史」)。11世紀頃のキエフ公国で民族としてのアイデンティティを持ったが、すぐに他民族に支配され、長年の独立運動による独立もソ連によって押しつぶされ、スターリンによる330万人の餓死も経験した。やっと独立を勝ち取ったのはソ連崩壊後の1991年。それも自由に目覚めた最近になって、ロシアと違うアイデンティティを享受できるようになった。

 従って、ウクライナ人が戦うのはこうした歴史の記憶、民族としてのアイデンティティ、そしてやっと勝ち得た自由を奪われないためである。ゼレンスキーはこの戦争について、結果がどうあれ、未来のウクライナ人のためにも戦い続けるべき「正義の戦争」だと思っている筈だ。だがそれでもなお、ウクライナは絶望的な戦いの中で、どこまで戦うのか、どこまで犠牲を受け入れるのか、ぎりぎりの選択と妥協を迫られて行く。それは、いわば「屈辱の平和か、流血の正義か」という難しい選択であり、これは実は様々なケースで普遍的なテーマでもある。

◆屈辱の平和か、流血の正義か
 ロシアの管理下で差別され、息を潜めて暮らす「屈辱の平和」を受け入れるか、民族としてのアイデンティティと自由を守るために「流血の正義」を覚悟するか。こうしたぎりぎりの選択の例は、歴史上様々にある。例えば、最近の映画「峠 最後のサムライ」の場合もそうだ。長岡藩家老の河井継之助は、西軍(官軍)に恭順の意を示しに行くが、にべもなく拒否される。藩主も河井も、西軍の理不尽な要求に屈して「正義」を曲げることをせず、苦悩しながらも断然戦いに踏み切る。しかし、そのことによって家臣団はもちろん、多くの領民が犠牲になった。 

 河井が敢えて戦いを選んだのは、たとえ武士は滅びるにしても、武士として正義を貫く姿を後の世に伝えるためだった。それは原作者の司馬遼太郎が人間の芸術品と書いた江戸末期の武士という人間像を鮮やかに残すことになった。それはそれで日本人の記憶の中に生きていく。その反対に、最後の将軍の徳川慶喜や勝海舟は、戦いを避け、無血的に江戸城と政権を官軍にわたした。彼らも、100年後を見据えていたに違いない。彼らも一方で戦いに備えながらも、「屈辱の平和」と「流血の正義」の内容を正確に見抜き、ぎりぎりの選択をした。

◆国際社会はウクライナの苦渋と困難に共感できるか
 しかし、同じ日本人ならまだしも、ウクライナの場合は相手がかつてのロシア帝国復活の夢に取り憑かれ、何をするか分からない悪魔的プーチンである。仮に屈辱の和平を選択するとしても、極めてハードルの高い究極の妥協が必要になる。戦うことを止めた時に、自分たちは何を失うのか。あるいは、それでも家族、国民の命を守るのか。妥協のための屈辱の平和の内容と、守るべき正義の内容を厳密に比較検討しなければならなくなる。こうしたことに、ゼレンスキーはじめウクライナ国民は日々悩みながら、プーチンのロシアと戦っているに違いない。

 従って、上記の毎日の記事に戻って言えば、私たちは国際関係の力学の中でウクライナ戦争を高所から“解説”するのでなく、戦争に直面するウクライナの人々の声にもっと耳を傾ける必要がある。彼らが何を賭けて戦っているのか。その戦争に関して、私たちに何が出来るのかを問い続ける必要があるということだろう。前に書いたように(*)過去のウクライナが経験してきた犠牲者の数は、先の戦争で多くの犠牲者を出した日本人からも容易に想像できないくらい多い。そうした歴史的背景も含めて、彼らの苦渋と困難を理解する必要がある。

◆戦争を避けるためにも
 翻って最近とみに、周辺国を仮想敵として防衛強化を叫ぶ日本はどうなのか。今の日本では、守るべき正義は明確になっているだろうか。例えば、戦前の日本で言えば、それは天皇を中心とした国柄(国体)だった。敗戦間際になっても軍部は、なお何千万という国民を犠牲にしても国体を守るために戦争の継続を主張した(「一億総玉砕と日本殲滅作戦」)。つまり、正義の内容も時代と共に変る。今の日本で、血を流しても守るべき正義とは何なのか。尖閣諸島などの領土なのか。右派が掲げる万世一系の天皇制なのか。定義が多岐にわたる国家主権なのか。

 或いは、漠然とはしているが、日本民族としての誇りや文化のアイデンティティなのか。仮に、戦争の瀬戸際になれば、平時のように単純に平和が一番とか、領土は1ミリたりともなどと言って力を振りかざしても始まらない。安全保障をいうなら、戦争を思い止まるためにも、いざ戦時になった時の「平和」や「正義」の内容を、常日頃から厳密に吟味して、妥協の余地がどこにあるのかを認識しておく必要があると思う。そのために、政治はどうあるべきか、メディアはどう伝えるべきか。ウクライナ戦争は、様々なことを私たち日本人に問いかけている。

目指すべきは「平和の構築」 22.6.21

 長期化の様相を見せるウクライナ戦争に対して、欧米各国が武器支援に乗り出しているが、武器の到着が遅れているせいか、ウクライナ東部ではロシア軍の攻勢が続いている。本格的な戦いは武器が届く7,8月頃になるではないかと言う。一方、戦争の悲惨なニュースが日々茶の間に流れる中で、世界では安全保障論への勢いが強まり、NATOが防衛費を対GDP比で2%まで増額すると発表したのを手始めに、各国で国防費を増やす動きが急である。日本でも防衛費を2%まで増額すべきだという自民党(右派、国防族)からの声が大きくなっている。

◆「安全保障のジレンマ」と「非戦の誓い」
 しかし、安全保障に力を入れて軍備を増強すればするほど、よく言われる「安全保障のジレンマ」に陥る懸念もある。ある国が軍備を増強すれば、相手国もそれに刺激されて、さらに軍備を増強する。結果として、ある国がどれだけ安全を追求しても、安全は永遠に保証されない、という矛盾である。それは、防衛的に備える武器と、攻撃に使う武器とが相手国からは区別出来ないからでもある(松元雅和「平和主義とは何か」)。ウクライナ戦争に便乗して日本が軍備を増強すれば、それは日本が警戒する中国や北朝鮮を今以上に刺激するジレンマに陥るわけである。

 今回の戦争をきっかけに、安全保障政策が一気にきな臭い方に動く気配の日本だが、ウクライナを見るまでもなく、いざ戦争になった時に罪のない市民を襲う悲惨やむごさは今も昔も変らない。戦争になれば、皆が自制を失い、幾らでも残虐にも悪魔にもなり得る。それは、数々の戦争の現場を訪れ、戦争被害者を取材し、戦争のむごさ、罪深さを丹念に拾い上げて来た写真家、大石芳野さんの「わたしの心のレンズ」を読むと痛いほど分かる。私たちは今、77年前の敗戦で噛みしめた筈の「非戦の誓い」(05.12.11)を、どうすれば持ちこたえられるのだろうか。

◆ヒートアップする防衛費倍増論
 ウクライナ侵攻でプーチンが核を脅しに使い始める。一方で、ミサイル発射を繰り返す北朝鮮が、今にも核実験に踏み切ろうとする。こうした中で、安部元首相たち自民党右派の安全保障論は熱くなる一方だ。一つはアメリカの核兵器を日本に配備し共同運営する「核シェアリング」論である。これは、核を持ち込まないという国の方針を変える論議だ。さらに、敵のミサイル攻撃を念頭に「やられたらやり返す」(あるいは「やられる前に叩く」)という意味で、敵基地攻撃能力(その後、反撃能力と言い換え)を持つべきとする。その上での防衛費倍増論である。

 一口に防衛費を対GDP比で2%に増やすと言っても、NATOの場合は1.5%からの増額に対し、日本の場合は倍増で、5兆円という大幅な増額になる。借金大国の日本でそんな金はあるのか、という財源論に対して安倍は、軍事国債を刷ればいいと、アベノミクスで積み上がった借金などどこ吹く風である。さらに、自民党の言う反撃能力とは、敵国のミサイル基地を叩くだけでなく、その「指揮統制機能等」まで攻撃目標に入れる。これは敵国の(日本で言えば)防衛省や首相官邸まで攻撃することになり、全面戦争を辞さないと言っているのと変らない。

◆三方面との緊張とアメリカへの配慮
 日本国憲法の精神である抑制的な「専守防衛」はどこへやらの議論だが、世界がきな臭くなるとたちまち、“それ行けどんどん”の声が大きくなるのは戦前と同じ構図である。こうした声に押されて作られた岸田政権の「骨太の方針」(6月7日の閣議決定)では、防衛費について「必要な措置を講じる」とした上で、増額に道を開くために、(財政再建の状況下でも)「重要な政策の選択肢を狭めることがあってはならない」という文言を入れることになった。岸田を取り巻く自民国防族の圧力に加えて、アメリカへの配慮がにじんだ表現になった。

 何しろ、NATOや日本が軍事費を増やすとなると、その半分はアメリカの軍事産業に回るというので、悲惨な戦争を横目に、アメリカの軍産複合体は首都ワシントンで夜な夜なパーティー騒ぎらしい(目撃者談)。中国、北朝鮮、ロシア、三方面との緊張と、アメリカへの思惑が絡んだ複雑な情勢の中で、日本の防衛費は5兆円からどんどんと、たがが外れたように拡大していく勢いである。一方では、こうした始めから2%ありきの議論に対して、同じ自民党の中からも疑問が出ている。岩屋毅(元防衛相)の意見である(6/15毎日オピニオン)。

◆こういう時こそ冷静な議論を
 岩屋は、「NATOは日本とは拠って立つところが違うので、やみくもにそれに準じる必要はない」、「数値目標が先にあって、そこへ向かって買い足していくような雑なやりかたをしてはいけない」と言う。さらに、「武力の行使は、努めて抑制的であり、かつ必要最小限でなければならない」とした上で、「危機をあおるのではなく、こういう時こそ冷静な議論を行い、安全保障の全体像を考えるべき」。「戦争に勝つという前に、戦争を起こさせないようにすることが大事だ」と、元防衛大臣として至極まっとうな意見を述べている。

 日本の防衛力については、「果てしなき軍拡競争の誘惑」(19.6.11)にも書いたように、(特に安倍政権になってから)アメリカのご機嫌を取るために「日本は自国を守るために必要なものが何かを包括的・体系的に評価しないままハードウェア(兵器)を購入している」と、米国軍事専門家にさえ言われるほど、アメリカの言い値で武器を増やしてきた。国防族が勢いづく中、「外交や経済安全保障、多国間安全保障協力など重層的な安全保障によって戦いを未然に防ぐことが何より大事だ」という岩屋の意見に、どれだけの人が耳を傾けるだろうか。

◆「平和の構築」を第一の目標に掲げて
 戦争はいったん始まるとこれを止めることは、容易ではない。何倍ものエネルギーがいる。同時にその結果、(広島、長崎、沖縄、ベトナム、コソボなどのように)筆舌に尽くしがたい悲惨が庶民を襲い、その傷跡はいつまでも消えることがない「わたしの心のレンズ」)。こうした現実を直視すれば、私たち国民はまず、「戦争だけは絶対にしてはならない」という「非戦の誓い」をすべての中心に置かなければならないわけだが、では、世界が多極化し、それぞれの国が生き残りを賭けて覇権を争うような時代に、非戦のために大事なことは何なのだろうか。

 まずは、こういう時代だからこそ、安全保障論の要は、「戦争に備えて戦える国を作る」というより先に、「どうしたら戦争を防ぐか」でなければならない。すなわち、「平和の構築」をこそ第一の目標に設定し、「平和を構築するにはどうしたらいいか」の議論を冷静に積み上げるべきだと思う。今の自民党右派のように、「有事、有事」と常に戦争の瀬戸際にいるかのように、緊張を高める姿勢も改めなければならないだろう。考え方、体制が違うからと言って、「価値観外交」などと言って集団で中国を封じ込めに走るのも、「平和の構築」とは方向が違う筈だ。

◆「平和の構築」を目指して具体的プランを
 多極化が進む世界には、民主主義的な国よりもむしろ非民主主義的で強権的な国の方が多い。そうした国の覇権主義的な動きを警戒するのは当然だが、アメリカ(と追随する日本)のように、民主主義の価値観を絶対視して、「価値観外交」を掲げて、国レベルで相手国の敏感なところに手を突っ込むことには極めて慎重さがいる。無神経にやると、戦争の火種になりかねない。仮に戦争になれば、抑圧されている相手国民まで戦争に巻き込むわけだから、体制が違っても、(メディア等の指摘は別として)それは相手国の国民の選択に任せるしかないと思うしかない。

 安全保障論や平和主義の考え方には、様々な歴史的積み上げがあるが、そうした議論が今、どれだけ国民の間に浸透しているだろうか。こういう難しい状況だからこそ、日本は安全保障論と並行して「平和の構築」に向けての国民的議論を深め、より具体的な「平和構築のプログラム」(仮)を作って、周辺国との障害を一つ一つ取り除きながら、世界にも「平和の構築」を呼びかけて行くべきだろう。

人類の進化とその積木崩し 22.5.29

 4月28日放送のNスペ「見えた、何が、永遠が〜立花隆 最後の旅〜」は、去年4月に亡くなった立花隆が残した資料やメモを手がかりに、彼の最後のメッセージを探る番組だった。その中で、立花が強調した一つは、「すべてを進化の相の下に見る」ということだった。138億年前に小さな点の大爆発(ビッグバン)から始まった宇宙は、ガスから恒星を生み、太陽系を作り、その惑星の上に生命を誕生させた。物質は放っておけば拡散・希薄化してしまう性質があるのに、それが生命にまで凝縮し高度な機能を持つようになるには、多くの奇跡的な飛躍が必要だった。

◆人類が作り出す高度な精神圏の可能性
 これを創発的進化というが、人間でいえば最初のほ乳生物から長い時間をかけて次々と創発的深化を繰り返し、ついにホモサピエンス(現生人類)が誕生。その人類は、誕生段階で生物学的な進化はほぼ止まったけれど、脳の働きの進化、精神活動の進化は続いて来た。理性的な推論能力、クリエイティブな想像力、概念を駆使する思考能力、言語を使用した高次のコミュニケーション能力などによって、「精神圏」という新しい進化の形を獲得した。唯一このようなことが出来る人類は、この惑星の未来に対して、すべての責任を持っていると立花は言う。

 すべてを進化の過程にあると見る人類進化のイメージは、彼の本「サピエンスの未来」にも詳しい。これは、主にテイヤール・ド・シャルダンの考えを解説した本だが、究極の創発的進化によって登場した人間の脳の集合化が織りなす、「精神圏」という進化の形について論じている。それは、人類の共同思考を結びつけながら地上の生命圏の上に新たに形成される、進化し続ける「生きた超巨大な高次構造体」だというが、イメージとしては急速に進化し続けるデジタル空間の先に見えてくる高度な文明世界、精神世界のようなものかも知れない。

◆より高度な方向への進化とその積み木崩し
 しかも、この精神圏の進化は一つの方向性を持つ。人類共通の意識がより高次なものへと収斂していく中で、精神圏は人種、宗教、社会的壁を超えた、全地球的、宇宙的なものの価値の追求へと進化していく。その精神圏の進化の遙かな先に立花が見たのが、「永遠」ということなのだろう。ところが今は、この統合の方向にさらに歩を進められるのかどうか、人類がことあるごとに選択を迫られている時代でもあるという。確かに、いかに進化の方向性が定まっていても、人類はしばしば、それに逆行する「積木崩し」をして来たからである。

 例えば、今のウクライナ戦争である。戦争開始以来、ロシアは第二次大戦の反省から生まれた国連憲章や国際条約を無視し、その残虐性、非人道性によって世界に衝撃与えてきた。この21世紀になぜ、プーチンのような独裁者が生まれたのか。彼は罪のない民間人の犠牲をどう考えているのか。(いかに情報が閉ざされているとは言え)ロシア国民はなぜ黙ってプーチンについて行くのか。さらには、この戦争が核の応酬を含む第三次世界大戦にまで拡大する可能性はあるのか。何度も懲りながら、人類はなぜこうした破滅的な戦争をやめられないのか

◆民族間の怨念を生み出す世界戦争
 今回の戦争の背景にある根深い歴史的対立を見ると、とても精神圏の進化どころではない気がしてくる。そこで最近見た番組も引用しながら、「人類進化の積木崩し」の実態を考えてみたい。確かに、ウクライナには、ソ連時代のスターリンによって330万人が餓死させられた歴史(ホロドモール1932-3年)もあったし、第二次大戦中には独ソ戦に乗じて独立を図って両国に徹底的に蹂躙され、500万人の死者を出したこともある。こうした膨大な犠牲者と精神の荒廃、民族間の怨念を生む戦争こそ、積木崩しの最大の要因と言える。

 一方、世界中で5000万人とも8000万人ともいわれる膨大な戦争犠牲者を出した第二次大戦の中でも、ドイツと戦ったソ連は2600万人と飛び抜けて多い(日本は310万人、ドイツは600万人)。これは、ヒトラーの毒牙を何としても逃れるためのやむを得ない犠牲だったかのか。ドイツ軍に900日にわたって包囲されたレニングラード(人口300万)では、100万人が餓死したが、独裁者スターリンは市民がそこから逃げ出すことを許さなかった。プーチンの兄はそこで餓死し、母は瀕死の状態で助かった。プーチンにとって原点とも言える戦争だった。

◆独裁者スターリンとプーチンにとっての戦争
 5月23日放送の「映像の世紀 スターリンとプーチン」は、ソ連を超大国に導いたスターリンと、大国ロシアの復活を誓ったプーチンの2人の独裁者を描いていた。国民の命の重さを度外視して「大祖国戦争」を勝ち抜いたスターリンは、何百万人もの大粛清で邪魔者を抹殺し絶対権力を握った後も、ソ連を超大国に押し上げるために冷酷な圧政で多くの国民を死に追いやった。強制収容所あるいは強制移住の被害者は数千万人に上る。ヒトラーもそうだったが、人命を虫けらのように扱い、絶対権力を握って全体主義の恐怖政治を敷いた。

 そこに見られる特徴がどういうものかと言えば、一つは国家の運命と自身の運命を一体化した妄想であり、より強大な覇権国家を夢想する傾向である。その一方で、他国からの侵略を必要以上に怖れる被害妄想である。さらには、自分の独裁的権力を保つための力による恐怖政治、そして民衆の熱狂を生み出す企み(ポピュリズム、メディア支配)などである。ソ連崩壊後のロシアを支配するプーチンもまた同じ独裁者への道を歩んできた。絶対権力を握って覇権国家を目指すと同時に、欧米からの侵略を極度に疑う。そのために戦争に取り憑かれる。

◆互いが覇権争いに身構えている状態
 覇権大国への妄想は独裁者に取り憑いて離れない。ヒトラーも、軍部独裁の戦前の日本も、世界制覇に決着をつける“世界最終戦争”などという妄想に取り憑かれていた。今のロシアの政治学者でさえ、国営テレビ番組で「今のウクライナ戦争は、将来起こりうるNATOとのより大きな戦争のリハーサルに過ぎない」などと言うほどに、こうした覇権国家は戦争に取り憑かれている。人々を戦争に駆り立てるこうした全体主義は、立花たちが解説する人類統合の方向などとは違って、「全体化に向かう果てしない道に蒔かれたワナや袋小路」の一つにすぎないという。

 その戦争の結果、地球も人類精神も荒廃する。では、こうした袋小路やワナを避けるために、人類はどうすべきなのだろうか。第二次大戦当時のヒトラーとスターリンのような独裁者がどのように生まれたのかの研究には、ハンナ・アーレントの全体主義の起源がある。では、21世紀の現代で独裁者を目指すプーチンや中国の習近平はどうなのか。アーレントに匹敵するような研究が待たれるところだが、俯瞰してみれば、今の世界は民主主義体制の国より、強権的な政治体制の国の方が増えている。互いが覇権争いに身構えている危険な状態が今の世界なのである。

◆民主主義を磨いて平和の構築を
 民主主義を掲げるアメリカでさえ、ウクライナ戦争を長引かせてロシアの弱体化を狙うと同時に、軍需産業で儲けようとしている。こういう状況では、冒頭に書いたような「人類精神の統合化が目指す永遠」などは霞んで見えなくなっているとしか思えない。しかし、その霧を払うためにも、人類は貴重な発明である民主主義という政治形態を手放すわけにはいかないのだと思う。それは、国民一人一人の命の重さを重視する主権在民であり、法のもとの平等であり、同時に、曲がりなりにも政治が戦争というワナに入り込もうとするときのチェック機能を持っているからである。

 地球の運命に唯一責任を持つべき人類の前には、温暖化防止など、果たすべき責務が山積している。積木崩しをしている余裕はない。民主主義を磨き続け、より機能させて平和の構築を目指すしか、ほかに進むべき道はないことを今一度肝に銘じるべきだろう。

核戦争の瀬戸際で考える事 22.5.10

 大きなサプライズがなかった5月9日の対独戦勝記念日を過ぎて、ロシアのウクライナ侵攻は長期化の様相を濃くしている。プーチンはこの戦争について、ロシアを守るための唯一の正しい選択だったと正当化し、一方のゼレンスキー大統領は「我々は子どもたちの自由のために戦っている。だから我々は勝つ」と言う。ウクライナの善戦によって戦況が膠着する中で、西側諸国(NATO)はこの戦争に武器支援を強化し、ロシアの弱体化やプーチン政権の否定まで云々し始めた。これに対し、プーチンは“電撃的な対抗措置”をとると言い出している。

 “電撃的な対抗措置”とは核兵器の使用を指すが、テレビに出てくる評論家たちは、プーチンがどこにどんな種類の核を使うのか、あるいはその時、アメリカの対応はどうなるか、などの戦術面をしきりに解説するが、核の使用が世界にもたらす重大かつ悲惨な事態については他人事のような口ぶりである。その影響の重大性を考えれば、何よりも核使用を押し止めるための方法について議論するべきだと思うのだが、ヒロシマの被爆者団体が声明を発した以外に、欧米の指導者、世界の指導者の誰も本気で核の脅威と非人道性について訴えようとしない。

◆核戦争の瀬戸際という実感
 これは思うに、世界は77年前に広島と長崎で2度の核使用を見ただけで、その悲惨さ、無残さを十分理解していると言えないこともあるが、一方で、その後開発された(全世界)1万4500個の核弾頭の現実を、実感を持って想像できないからでもあるだろう。何しろロシアが持っている「世界一怖い原潜」()には、射程距離9300キロの弾道ミサイルが最大20基も搭載可能であり、しかもその威力は1基で広島型原爆の数千倍から数万倍もある。ロシアが発する最初の戦術核が人類破滅的な核の応酬につながる可能性を誰が否定できるだろうか。*)「核大国を蝕む野心と猜疑心」2018.2.8

 NATOに追い詰められたロシアが、仮に戦術核をヨーロッパのどこかに打ち込んだ場合のアメリカの対応は揺れている()。ロシアへの報復が核の応酬にエスカレートしないように、核攻撃を控えて通常兵器で対抗する案から、それでは核の傘を頼る同盟国を引き留められないとして、地域を限定して打ち込む案まである。しかし今は、戦術核が民間人に及ぼす非人道的な状況がSNSで世界に同時発信される時代である。それが憎しみを極限に増幅させて、さらなる核の応酬の引き金になるかも知れない。そして、その行き着く先は世界的な地獄である。

◆核戦争がもたらす絶望的被害
 仮に、核の応酬が始まった場合。そのシミュレーションがプリンストン大学で行われている(*)ロシアが威嚇のためにNATOのどこかにミサイルを撃ち込む。NATOは報復のために大規模空爆をロシアに実施。それに対抗してロシアが300発の核弾頭をヨーロッパに。NATOはその対抗として180発の核をロシアに。これで最初の核ミサイルから3時間ほどで260万人が死ぬ。さらに、応酬が拡大してアメリカが核ミサイルを発射。ロシアもアメリカ各都市へのミサイルを。これで僅か4時間半後には9000万人以上が死ぬというものである。

 もちろん、影響は一次被害の死者の数だけではないだろう。これに倍する負傷者があり、二次被害である放射能汚染による影響、世界を覆う(核の冬のような)気候変動、さらには壊滅的な経済の冬が何十年と続く。世界の誰も土俵の外にいることは許されず、他人事のように評論している場合ではないことが分かる筈だ。さらに、こうした核の応酬によって消滅するのは今の人間社会だけではない。過去から人類が営々として築いてきた文明、文化の遺産が消える。また、将来世代が築くであろう未来の地球文明の可能性まで核戦争は奪い取ることになる。

◆一握りの人間が人類の運命を左右する
 問題は、こうした人類全体の運命を左右する核のボタンが(プーチンを始めとする)一握りの人間の決定権にゆだねられているという恐怖の現実である。サルトルはかつて、これを戦争の形態が中世の兵隊中心から、国民戦争へと変って来た歴史を覆す「歴史における最も反動的な逆転」と言った。一握りの人間が世界滅亡の戦争を始めるかも知れないとき、我々はどうすべきか。サルトルは、その本質に我々は団結して戦わなければならないと同時に、核廃絶に向けて我々内部の恐怖心とも戦わなければならないと言った(「核時代の想像力」大江健三郎)。

 サルトルの当時からさらに事態が深刻化し、切迫している今、私たちはその深刻さをより冷徹に見極める必要に迫られているわけだが、この点で、プーチンを支える取り巻きの実体は、まさに前回にも書いた「ロシアの底知れぬ闇」を思わせる。BBCがまとめた「この戦争はどういう顔ぶれが遂行しているのか」では、プーチンの側近達の横顔を紹介しているが、中でもKGB時代からプーチンの汚れ役をやって来たパトルシェフ(国家安全保障会議書記)は、タカ派中のタカ派で、西側への強硬策で知られる。数々の暗殺でも共犯関係にあったに違いない。

 さらに邪悪なのは、大統領補佐官に成り上がった歴史学者のメジンスキーである。彼は「ロシアは地獄の文明を作るべきだ」と言い、「ロシアには力さえあれば知性は必要ない。人間を成長させるのは恐怖である。偉大な権力は地上を楽園にするのではなく地獄に変える。ロシアはモンゴルなどの野蛮な騎馬民族に支配されていた時代があり、その残虐性の系譜こそがロシアの特徴だ」とまさに、恐怖と力による支配を目論む。

◆核時代の恐怖を共有して智恵を
 21世の現代に、こうした底知れぬ闇を抱えた一握りの人間が人類の運命を左右する核のボタンを握っている現実をどう考えるか。核の魔力に囚われた指導者は、ロシアばかりでなく、北朝鮮、中国、そしてアメリカのネオコンなどにもいる。この恐怖の現実を見極めることなく、核には核をとばかり、安直に「核のシェアリング」などと言う人間(安倍)もいるが、まずは目の前の核の使用をどう食い止めるのかである。そのためには、プーチンが始めたこの愚かな戦争をどのように停戦のテーブルに乗せるのかに、皆が智恵を絞る必要があるだろう。

 できる限り時間を稼ぎつつ、どう核兵器使用のリスクを下げていくのか。武器支援やロシアへの経済封鎖ばかりに前のめりになる現在だが、ロシアを追い詰めるだけではなく、一方では国連などを中心として事態収拾のための高度な戦略も追求する必要がある筈だ。極めて困難だが、誰もが核戦争の瀬戸際にいることを考えれば、大国の面子は面子として、何らかの落としどころを見つける作業が必要になる。そのためにも、世界は今一度、核兵器の使用がどのような悲惨を人類にもたらすかという「核時代の想像力」を共有する必要がある。

◆将来的には核廃絶への道を
 わずか5ヶ月前の1月3日、アメリカ、中国、ロシア、イギリス、フランスの核保有国5か国は、「核戦争に勝者はなく、決して戦ってはならない」とする共同声明を発表したばかりである。それが2月24日にロシアがウクライナに侵攻してからわずかな間に、世界は核戦争の脅威に直面している。この解決には様々な困難がある。世界がロシアの核の脅しに屈した印象を与えれば北朝鮮のように核保有を目指す国が次々と現れるだろう。それを防ぐには、プーチンにも懲罰と反省を迫りながら、差し迫った危機の収拾を図らなければならない。

 人類が生き残るためには、プーチン一派が如何に邪悪でも、世界はそれを乗り越える理性を取り戻さなければならない。地球上に暮らす70億人には大事な家族があり、暮らしがあり、未来がある。それを無残に断ち切らせないための智恵を探す。そのためには時間がいる。核戦争の恐怖を共有しながら、焦らず粘り強く終戦への道を、さらにこれを機会に核廃絶への道まで探って欲しいと思う。

ロシアが抱える底知れぬ闇 22.4.24

 2月24日にロシアがウクライナに侵攻してから2ヶ月が経過した。この間、ウクライナ、ロシア双方に出た犠牲者は何万人になるのだろうか。国外に脱出した避難民は500万人とも言われる。同時に、南部マリウポリに見られるような各都市の徹底的な破壊は、ゼレンスキー大統領が復興に70兆円を要すると言うほどだ。この先の戦争がどう展開するのかは分からないが、5月9日のロシアの対ドイツ戦勝記念日に一つの区切りがあるとして、さらに来年末まで続くという見方もある(英首相)。ロシア国内のプーチン支持層には、首都キーウまで制圧すべしとの声も根強いという。

 このまま戦争が続くとなると、世界はさらに残酷な死と破壊を見せられることになり、ロシアへの強硬意見がヒートアップして武器支援がエスカレートし、一方で追い詰められるプーチンが(核を含む)危険な武力行使に踏み切るリスクも高まっていく。どこかでこの愚かな戦争の終結を探る動きが出て欲しいと思うのだが、バイデンのアメリカもプーチン批判を強めて戦争当事者になりつつあるし、それに追随する日本も同じだ。みんな火に薪をくべるだけで、水を掛けようとする者がいない。国連事務総長のロシア訪問もどうなるか。

◆ロシアによる様々な国際法違反と戦争犯罪
 そうした戦況の推移とは別に、少し距離をおいて見ると、この戦争は戦後しばらく核戦争の残虐さと不条理を忘れていた世界に、深刻な問題を提起していることが分かる。同時に、第二次世界大戦の反省から人類が様々に取り組んできた国際的な平和維持の枠組みが如何に不備なものだったかをさらけ出す結果ともなっている。ロシアが行っている戦争の禁じ手の数々を思いつくままに整理してみると、まずは、今回のロシアによる一方的なウクライナ侵攻が明かな侵略行為(武力による国境変更)で国連憲章違反にあたることである。プーチンが言うような自衛のための戦争などとはとても言えない。

 さらにはジュネーヴ条約(国際人道法)に違反する行為とされる、病院を含む民間施設への無差別攻撃と住民の虐殺や略奪がある。東南部では組織的な性的暴行や拷問も報告されている。ロシアはこれらのおぞましい犯罪を否定しているが、首都キーウ近郊のブチャで発覚した住民の虐殺については、既に国際刑事裁判所(ICC)が捜査を始めている。さらには、ジュネーヴ条約で禁止されている原発への危険な攻撃もあった。もちろん、大量の民間人を巻き込む核兵器の使用も「国際人道法違反」である。

◆国際的な規定が強制力を持てない現実
 問題は、これらの国際法の不備ないしは強制力の欠如である。長(おさ)有紀枝(立教大教授、毎日4/15)によれば、国連憲章は武力行使について「禁止」ではなく、「慎まなければならない」と表現するだけ。核兵器の使用についても国際司法裁判所(JCJ)は、絶対的に違法との見解を出していない。それをいいことに、プーチンは国家の存立が危ぶまれる状況にはこれを使うと脅している。国連では常任理事国のロシアが拒否権を行使すれば、ロシア非難の議案が通らないという国連の仕組みそのものも、欠陥を露呈している。

 また、戦後の世界は破滅的な核戦争のリスクを下げるために、(核不拡散などの)国際的な枠組みを作ってきたが、今回のプーチンの脅しによって、核抑止の考え方そのものが揺らいで、機能不全に陥っている問題も浮上した。一方で、私たち(特に自由主義陣営)は、グローバル化によって、人道主義、人権尊重、民主主義などの普遍的な価値観を世界が共有して来たと思い込んで来たが、それが幻想だったことも露わになった。今回の戦争は、人類の未来に不可欠なそうした価値観が、私たちの足元で空洞化している深刻さをも示している。

◆実は、価値観を共有してこなかった世界
 人類共通の価値観の空洞化もさることながら、それを担保する国連を始めとする国際機関や国際条約の再構築には、どの位の時間と努力が必要になるのか。特に、今回の戦争で仮に核兵器が使われたりすれば、世界はかつてない「再生の苦しみ」を味わうことになるだろう。ロシア、中国を始めとして世界で非民主的な強権国家が増え、時計の針が逆戻りしている現在、果たして今一度、自由主義に基づく国際機関や規定が作れるかどうか。人類破滅の核戦争を抑制することが出来るか。ウクライナ戦争後の世界は、再び大きな試練に直面することになる。

 それにしてもプーチンのロシアである。プーチンの時代錯誤的な大ロシア主義への野望、或いはNATOの包囲やナチズムに対する被害妄想についてはこれまでも書いてきたが、一方で、そのプーチンにいわば盲目的ついていくロシア国民の精神構造である。いくら国内のプロパガンダにさらされているとは言え、80%近くの支持率でプーチンを信じる国民感情はどこから生まれるのか。あるいは、21世紀の現在においてなお、おぞましい戦争犯罪に走る兵士達とそれを許す(黙認する)プーチンや軍中枢や意識構造は、どこに由来するのか。

◆ロシアが抱える底知れぬ闇
 この2つの疑問に関して「ロシア人の精神の闇」を提起するのが、ロシア文学者の亀山郁夫である(毎日、特集4/15、4/22)。帝政ロシアの時代、大多数が農奴だったロシア人は、心に闇を抱えて生きていた。その闇は信じる神を持たない人々の闇であり、ドストエフスキーが言うように、神がいないのであれば「すべてが許される」というアナーキーな精神性につながっていく。その闇に一旦落ち込み始めたら、堕落はとどまることを知らなくなる。逆にそうした自覚があるからこそ、彼らは強い支配者を半ばマゾヒスティックに待ち望んできたという。

 そうした闇を抱えた精神性は、個人の自立を著しく遅らせて来た。そのために他者に対する想像力を欠き、戦場を「すべてが許される世界」と思わせて来たのだと言う。プーチンを強い指導者として崇めてついていく。その心の闇に直面させないためにも、プーチンはロシア民族の栄光をうたい、どんな手段を使ってでも大ロシアを復活しようとする。その意味では、プーチン自身もロシア人に共通の底知れぬ闇を抱えて生きていると言っていい。考えて見れば、ロシア民族は(一部の目覚めた人々を除いて)農奴で虐げられていた時代から精神の自立の機会を奪われてきた。

◆戦後世界はロシアの人々の自立を支援できるか
 一部の貴族層や地主によって搾取され、抑圧されてきた農奴や労働者を救う筈のロシア革命は、すぐにスターリンの全体主義に移行しロシア人は70年間も共産主義の圧政と官僚主義に閉じ込められて来た。ソ連が崩壊した1991年、西側と同じような自由な国になるかと思ったら、たちまちプーチンの独裁が始まってしまった。東欧の旧ソ連国やウクライナが独立し、自由と民主主義の有り難さを知ったのと対照的に、ロシアは闇を抱えたままの国で来たわけである。気の毒と言えば気の毒だが、その闇を利用しているプーチンがいる限り、ロシアは絶望の国のままと言える。

 その意味では、まずはプーチンに退陣して貰うことが肝心だが、仮にプーチンがいなくなっても、ロシアは巨大な闇を抱えた核大国として、戦後世界の大きな問題として残ることになる(ジャック・アタリ「ETV特集」4/2)。これと世界はどう向き合って行くのか。亀山郁夫は、ロシアが変るためには国民一人一人が如何に自立するかにかかっていると言う。今は抑え込まれているが、戦争反対に声を上げる若者やジャーナリストたちが、新しいロシアを作ってくれること。それを国際社会が支援していくことが、極めて重要になる。

 考えて見れば、アジア各地で残虐な殺戮を犯していた、80年近く前の日本も同じような状況だった。その日本がアメリカ占領を機に、悪夢から覚めたように戦後民主主義を根付かせて来た。その幸福を思うと同時に、21世紀の今になっても分断された世界には自由と民主主義の共通の価値観がないこと、未体験のまま圧政にあえぐ人々が、まだまだ多くいる現実に私たちは真剣に向き合う必要がある。