「風」の日めくり                     日めくり一覧         
定年後に直面する体と心の様々な変化は、初めて経験する「未知との遭遇」です。定年後の人生をどう生きればいいのか、新たな自分探しを通して、終末へのソフトランディングの知恵を探求しようと思います。

80歳の大台に乗って思うこと 25.6.19

 5月末に無事、満80歳の誕生日を迎えることが出来た。私の人生は日本の戦後史と重なる。敗戦2か月半前に福島県の疎開地で生まれ、戦後の貧しい時代を茨城県日立市で育ち、高校、大学くらいから日本の高度経済成長を目の当たりにして育った。小学校時代は自然に恵まれた環境の中で、様々なものの採集に励み、工作少年として時間を過ごした(「人生の趣味の季節」2006.1.5)。今振り返ると、それぞれの節目で、極めて濃密な時間を過ごして来た思いがする。その節目節目の積み重ねで80年。そこそこ健康で今を迎えられたことには感謝しかない。

 遠方の子供からはメールとLineのメッセージがあり、月末には、娘一家が(私の提案だったけれど)「傘寿の祝い」を開いてくれた。孫たちからおめでとうのお手紙と花束を貰って80歳になったことを一つ実感した。この「メディアの風」のコラム執筆を卒業したのを機に、しばらくのんびりと庭木の剪定や読書、ゴルフなどを楽しむことにして、先日にはカミさんとともに、福井市での義母の49日の法要と納骨式に立ち会ってきた。前後して金沢市に立ち寄り、かねて訪ねてみたかった「金沢21世紀美術館」を見学し、帰りには山代温泉に一泊した。

◆十年一日の如く流れる時間を実感する
 97歳で逝った義母の49日には近親者の6家族13人が参加。義母の3人姉妹の娘たち(カミさんの従姉妹たち)も参加して、昔話に花を咲かせていた。義母の末妹は94歳で元気だそうだ。それぞれの家族が、スマホで家族の写真を見せ合いながら、子供の成長を語り、孫の成長に喜びを感じ、各人各様の人生の時を過ごしているのを確認し合う。亡くなった誰それの思い出も含めて、そこに家族の歴史の時間が流れていたとことに、ある種の感慨を持った。集まった人々は皆、名もなき庶民に過ぎないが、そのようにして誰の身にも時は平等に流れて行く。

 様々な節目はあるにしても、そこに流れている時間は、離れて見れば「十年一日の如し」だ。特に、80歳の大台に乗った後の時間などは、人生の“おまけ”などとのんびり構えていると、あっと言う間に過ぎて行くだろう。それが別にまずい訳ではないが、出来ればあと5年くらい続けられる、一つの軸になるような、何か楽しみを探せたらと思っていた。しかし、それがなかなか見つからない。そこで考えたのは「この1年をその模索の一年としよう」ということだった。絵の再開、ゴルフ、旅、読書などなどを楽しみながら、とりあえずはのんびりと。

◆そうして「ボーっと」暮らしていると
 さて、そうして「ボーっと」暮らしていると、いつの間にか「十年一日」のような、その日暮らしに近づいていく。それも悪くはないのだが、不思議なことにたちまち現実世界への関心が薄れる事に気が付いた。今、世界はイスラエルとイランの戦争、悲惨なガザ攻撃、ウクライナ戦争、そして「自国第一」による大国のエゴが幅を利かす混迷の時代に入りつつあるが、そんな悲惨なニュースも見たくなくなる。番組企画の仕事についても、油断すると距離を感じることに気が付いた。これでは、いくら「ボーっと」暮らすと言ってもまずいのではないか。

 「この1年は模索の年」と位置付けて、80歳ならではの楽しみを試してみるというアイデアは、ぱっと見、素晴らしいと思えたが、そんなに悠長に構えていていいのだろうか。それとも生来の貧乏性なのだろうか。先日の「21世紀美術館」では、駆け足の見学だったが、現代美術の情念の強さを感じた。その情念が各自、生の形で声を発している。そのような作品の力強さに比べるべくもないが、私の方も何とか絵心の刺激を受けて、絵の再開に漕ぎつけたい。エアコンの効く部屋の環境を整えて、とりあえず、前回に完成した絵の修正から始めることにした。

◆ふと「ソフトパワー」という言葉が頭に
 読書の方は、市立図書館に行って読みたい本を探しているが、これも「ボーっと」生きているせいか、関心の的が定まらない。先日は、友人お勧めのハードボイルド、チャンドラーの「長い別れ」と「プレイバック」を読んだ。皮肉屋で自分に厳しい私立探偵、フィリップ・マーロウの「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」の有名なセリフが出て来るのは後者である。福井往復の新幹線では、原田マハの「たゆたえども沈まず」を読んだ。こちらは、ゴッホ兄弟の苦悩と愛情をパリの日本人と絡めたフィクションである。

 このように「模索の1年」と考えて、ボーっと暮らし始めると、世界や時代の動きへの関心が薄れて来る。この20年、コラムを書くために、時代と向き合って来たのとはエライ違いである。それでも惰性で、新聞2紙を読み、心に留まった記事を切り抜く作業は続けている。目の前の事象を追うというのではなく、数は少ないが、歴史や文化的、文明的な題材が中心になる。そんなテーマは、番外編として、時々「風の日めくり」で書いて行ってもいいのではないか。そう思いながら、最近ふと頭に浮かんだ言葉がある。「ソフトパワー」という言葉である。

◆世界平和に貢献できるソフトパワーはあるか
 それは、これだけ世界が大国によってかき乱され、混迷を深めていく時に、日本はどうすればいいのかと言うことである。大した軍事力も持たない日本は、どこまでも「下駄の雪」のようにアメリカに追随して行くのがいいのか。それとも、独自の軍事力増強に走るのか。むしろ大事なのは、軍事力に頼らない日本独自の「ソフトパワー」を発揮して、世界の安定に寄与することではないか。そのために日本は、自分の何を磨くのか。世界の混迷に対処、貢献するための日本の「ソフトパワー」についてAIと会話を重ねてみた。まずは、その質問である。

<AIへの質問>
 『トランプ大統領の「自国第一主義」といった政策で、多極化する世界。それぞれの大国が自国の利益を最優先する時代に入って、大国同士の主張が激しくぶつかり合い、世界がますます不安定化して行く可能性があります。そうした中で、日本が世界に協調と融和を呼びかけながら世界の安定に寄与して行くのに有効なのは、軍事面でのハードパワーなどより、日本が持っている「ソフトパワー」ではないでしょうか。
 この点から考えた時に、日本のソフトパワーとは何か、日本が自覚的に行使して行く際の定義や、具体的な力を明確にする必要があると思います。日本が世界に貢献できるようなソフトパワーを具体的に挙げてみて下さい。』

◆「日本のソフトパワー」のコラムを書かせる
 AIは、ほぼ瞬間的に日本のソフトパワーの具体例を吐き出して来る。それを見て私は、そのソフトパワーをA、Bの2つのタイプに分け、日本が存在感を高め、世界の安定に貢献して行く際に備えるべき「ソフトパワー立国としての国家ビジョン」を、コラムとしてAIに書いて貰うことにした。その質問は。

 『大国のエゴが幅を利かし、ぶつかり合う中で、戦後の自由や民主主義といった国際的価値観が薄れ、深刻な対立、分断、衝突の危機が高まっている時に、日本独特のソフトパワーは貢献できるか。そういう問題意識を提起するために、国際的混乱、緊張、混迷の中で生かすソフトパワー(Aタイプ)と、日本自身が生き残りのために内なる魅力を高めるべきソフトパワー(Bタイプ)に分けて、その両面の重要性を訴える内容にしてください。同時に、日本のソフトパワー的国家像は、日本だけの戦略ではなく、これからの世界が模索すべき普遍的な価値観になり得るということも強調したいですね。』

 コラムについてのAIの自己評価は、時代認識の深さなど高評価だが、その内容は、近々、私なりに手を入れて「風の日めくり」の番外編にまとめてみたい。何しろこの1年を模索の年と言って、日々「ボーっと」暮らしていると、頭が劣化する一方の感じもするので、少しは頭の体操もしなければと思う日々である。

O君の死と命を巡るあれこれ 25.5.23

 高校の同級生のO君から癌の知らせがあったのは、去年の2月だった。肺に何か所か癌がみつかって、手術は無理と言われたこと。ステージ4と言うことだった。抗がん剤治療を始めるにあたって、効果がありそうな薬を見つけるのに、その癌がどこから来たものか、いろいろ調べているうちに肺がんのもとになった胃がんが見つかった。こちらは手術可能ということで、胃の切除手術を受けたが、胃がんから転移した肺がんの治療薬はなかなか難しいと言うことだった。その間、医療に詳しい大先輩に何度か相談に乗って貰い、電話で励ましていた。

 抗がん剤による治療の副作用にも耐えながら、強い意志で癌と闘っていた。途中、セカンドオピニオンを求めるために、がん研究有明病院を訪ねたりしたが、現在の治療方針が適当との答えだった。定期的に私や映画監督のK君などが彼に電話を入れながら、治療の進展を尋ねて同級生仲間と情報を共有していたが、主治医も驚くほど癌マーカーの値が下がった時もあって、O君は果敢に病と闘っていた。O君と私たち6人の同級生は、もう15年位前から時々お茶の水の蕎麦屋の2階をなじみにして、定年後の様々な話題を肴に、集まっては酒を酌み交わして来た(写真は2013年、右端がO君)

◆終戦の年に生まれて80年の幸せ
 コロナで集まれなくなってからは、リモートでやっていたが、彼ががんになってからも、抗がん剤治療の合間を縫って続けた。最初のリモートでは、癌の発見からこれまでの経過を詳細なパワーポイントにまとめて、メンバーに報告。彼らしい律儀さだった。また、去年の11月には思うところがあったのか、(彼が関係していた勉強会などに寄稿した)これまでの人生を振り返ったような手記をメールで送って来た。組合で会社のトップに逆らって恨みを買い、札幌に飛ばされて7年間も塩漬けにされたこと、しかし、最後は監査役で充実した人生だったこと。

 その彼が言っていたことは、終戦時に生まれた我々は実に恵まれた人生だったということである。生きている間、戦争がなかったことが何よりの幸せ。そして経済が右肩上がりで暮らしがどんどん良くなっていったことである。それは、私も全く同感である。そうこうするうちに4月半ば、緊急に入院したと言う。心配して奥さんに電話したら、かなり重篤らしかった。奥さんも心労で35キロにまで体重が減ってしまったという。K君と2人でどうしたものかと話しているうちにまた連絡が来た。二人には、病院で会ってやって欲しいということだった。

◆O君の最終局面を病院に見舞う
 会っても、分かるかどうか分からないと言うが、K君と相談して先月28日に病院を訪ねた。会って何を言ったらいいのかと随分と悩んで、経験豊富な医療の大先輩(98歳)に聞いてみた。すると「聴覚は最後まで残っているので、大きな声でなくても、耳元で静かに話せばいい」と言ってくれた。面会時間に合わせて2人で訪ねると、目は開いているが視線を動かすことも出来ない。耳元で「やっと会えたね」と手を握り「分かる?」と聞くと、答えようとして喉仏が動くような気がする。「もう一本、君にも観て貰いたかったけどなあ」とK君も言う。

 「いい時代を生きて来たと君も言っていたが、本当だよね」と私は言った。そうして短時間だったが、面会時間が終り、私たちは談話室に移って奥さんと話をした。奥さんは痩せていたが、「私が倒れるわけには行かないので」と気丈だった。私たちは「今日は、奥さんを励ますために来たのだから」と、身体をいたわるように伝えて病院を後にした。帰りに、K君とお茶を飲んだ。子供がいない彼は徹底していて、「オレは癌になったら、治療は一切しない」、「死んでも誰にも知らせない」、何年か後に「彼はもういないんだ」と気づかれる風にしたいと言う。

◆自分の命は、何によって生かされているのか
 某日。私が80歳になるというので、もう一人の先輩が「平均余命」のデータを送ってくれた。80歳の男性の平均余命はおよそ9年。80歳現在で不健康な人も、健康な人も含めた平均なので、「あなたは、90歳は超えるよ」と言って。まあ、健康寿命はもっと短いので健康かどうかが問題なのだろう。しかし、この歳になると、自分の命が何によって生かされているのか、とんと分からなくなる。自分の命を何がどのように維持しているのか。Nスペの「シリーズ人体3、命とは何かを見ていると、命は自分であって自分ではないようなものに思える。

 人間の身体は40兆個の細胞で出来ているが、その一個一個の細胞の中は、まるで宇宙のような膨大かつ複雑な構造を持っていて、その中で様々なキャラクターが生命を維持するために、常に動き回っている。その一個一個の細胞の集合体が、ある場合は臓器になり、ある場合は脳を形成する。自分を自分と認識している脳細胞にしても、その中には膨大な宇宙的構造があり、それぞれのキャラクターたちが、何かの法則によって動いている。そのようなミクロの構造とキャラクターたちの働きによって、80年も生きて来た自分というのは一体何なのだろう。

◆見舞った一週間後に旅立ったO君
 そういうことを考えると、これが自分だと思っている自分は、常にかりそめのものかも知れない。さらに、生きていることと、死ぬことの境は何なのか。命を支える微細で膨大な構造物たちが、次々と活動を停止し、それによって支えられてきた細胞群が物質に変わって行く。細胞の中の微細な働きと構造が分かって来た時、人間の生命のどこまでが分かったと言えるのだろうか。その後、奥さんから、O君は私たちが見舞った一週間後に旅立ったという連絡を受けた。お葬式は家族でやり、49日には知人にも声をかけて納骨式をやるということだった。

 「いつも頼りにしていたお二人に会えて、主人も喜んでいたと思います」と言ってくれた。先月は、義母の最終局面を見舞い、次いでO君の最終局面を見舞った。特にO君の場合は、会って何を言うか悩みもしたが、それぞれ最期の別れが出来たことは、ある種の満ち足りた気持ちを私に残した。あまり突き詰めて考えていないが、それは多分、人と人との関わりだろうと思う。現代はそれがだんだんと希薄になって、人の死は一つの情報でしかなくなっていることが多い中で、その体験は何か手触りのようなぬくもりを感じさせたのかも知れない。

◆気が付けばいつも身近にあるテーマ
 心配してくれていた大先輩と仲間たちには、O君逝去の報告と奥さんからの感謝を伝えた。こちらは49日が過ぎた所で、いつもの蕎麦屋の2階で偲ぶ会をしようかと思っている。長く続いて来た仲間の会だが、この間に2人の仲間がそれぞれ子供を失うという言いようのない悲劇にも会った。少し落ち着いたところで、哀しみを分かち合う集まりを持ったが、「死とは、命とは」は、気が付けばいつも身近に存在する大テーマである。
 偲ぶ会は年齢を考えて昼食会にする手もあるが、やはり夜の方がいいかも知れない。あまり飲み過ぎないように気を付けながら。

花の季節に想う命のゆくえ 25.4.27

 花の季節が巡って来て、今年も元荒川の堤防のそばに立つ満開の桜に会いに行った。数年前に「花満ちて命のままの立ち姿」と詠んだ桜である。まもなく80歳になる私だが、どこかに、この桜にもいつまで元気で会いに来れるかという気持ちがある。花は毎年同じように咲くが、それを見る人間の側には、それぞれに歳月が刻む変化があって、同じと言うわけには行かない。満開から花吹雪まで、散り際の潔さ、儚さで日本人のこころを捉えて来た桜だが、それを見続けて来た人間の側からすれば、この季節はとりわけ、「いのち」のあり様を感じさせる。

◆アートに触れる春と孫娘の小学入学
 そうした季節感をベースに、この一か月をせき止めておきたい。某日。今はNYに住んでいる次男の奥さんの実家(木更津)を夫婦で訪ねた。先方のご主人が長く収集して来た美術品のうち、千葉県ゆかりの画家たち40人の絵の展覧会を私設の美術館(わたくし美術館)で行うと言うので見に行ったのである。有名どころで言えば、青木繁、浅井忠、田中一村、菱川師宣などの他に、葛飾北斎の肉筆画まであって、ご主人の解説を聞きながら楽しく絵を鑑賞した。3月末には、NYで金継師をしている次男の奥さんがNスぺで紹介されると言うおまけもあった。

 「新・ジャポニズム」という番組で、美大出の彼女がNYに行ってから本格的に修行した金継で、外人さんたちを教えている様子である。いま、そうした日本文化が人気なのだそうだ。ビジュアルアーティストの次男も、奥さんも、孫たち(バレエとアート)も、それぞれに好きなことに打ち込んでいるのが、素晴らしいと思う。某日。一番下の孫娘が小学校に入学。3月生まれなので、皆より一回り小さく、ランドセルに隠れるくらいだが、入学式の朝の動画で娘から「どういう気持ちですか?」と聞かれて「ワクワク」と答えていた孫娘も、元気に通っている。

◆母親を見舞いに、福井市を訪ねる
 某日。お世話になっている番組制作会社での新人研修。今年は2人と少なかったが、番組企画の考え方などを講義した。既に番組制作の現役時代から50年も過ぎているのだが、「常に新しい表現に挑戦する」という“テレビの心”は変わらないと思い、引き受けている。最近はAIの取り込み方とか、ネットを含めた発信の多様性とか、視野に入れるべき要素は広がる一方だが、それでも、愚直に伝えるべきものを、見る側の心に届くように伝えるという精神は変わらないと思う。この混迷の時代に若い世代が模索して行くテレビの可能性に期待したい。

 某日。カミさんの母親を見舞いに、福井市を訪ねた。母親は97歳。長らく弟夫婦が献身的に看てくれていたが、今年に入って体調を崩し入院しているので、弟夫婦に感謝方々、最後のチャンスと思って会いに行った。きれいな明るい老人病院で、母親も綺麗な顔をしてベッドに寝ていた。最初の日は、呼び掛けても目をあかず、いよいよかと思ったが、次の日は目をぱっちりあけて、じっとカミさんの呼びかける顔を見ていた。ただし、もう会話は出来ない。私が呼びかけるとしっかり視線を向けて来る。3日目も視線だけの会話を交わし、病院を後にした。

◆97歳。義母の大往生
 3日間の福井訪問だったが、その間、弟夫婦と墓参りがてらに桜のトンネルを見たり、2人で市内の桜通りを歩いたりした。50年前に勤めていたNHK福井放送局も訪ねてみた。建物は全く当時のままで、(私たちが30年前に開発した)卵のロゴマークが、まだ壁面に残っていた。玄関を入って若い受付嬢に「50年前にここで働いていたんですよ。古いままですね」と話しかけると「ホントに」と答える。駅前は恐竜の像が出来たり、高層ビルが建ったりしているが、古いところは古いままである。夜には、弟のなじみの鮨屋で念願のカニを食べながら夫婦をねぎらった。

 その97歳の母親は、福井から帰って半月後の4月27日に亡くなった。最後まで苦しむことなく、眠るように安らかに逝ったそうで、大往生と言えるだろう。子供たちにもカミさんからメールで知らせると、それぞれから丁寧な挨拶が返って来た。私の方は、仏壇に向かって、さらにはいつもの寺にお参りして般若心経を唱えながら冥福を祈った。母親の場合は大往生だが、最近は同年配や後輩の訃報が届くようになった。それだけ、こちらも何があってもおかしくない年齢に差し掛かって来たのだろう。周囲に、病と闘っている友人たちも増えて来た。

◆いのちのゆくえが気になる春
 重い肺がんと闘っている同級生。喉頭がん治療中の友人。あるいは前立腺がんの治療に入ろうかという友人。認知症の先輩などなど。大先輩を中心に集まっていた勉強会も一人欠け、二人欠けして、存続が難しくなった。皆、無事に乗り越えて欲しいと願いつつ、そういう友人先輩とのつながりの中で、改めて自分が置かれている年齢の重みを感じざるを得ない。私の方は、あと1カ月弱で80歳。先日来、睡眠中にきつい頭痛で目が覚めることが多くなった。ネットで調べると「睡眠時頭痛」という症状があって、脳神経外科でMRIを撮ったりした。

 そのMRIには、異常が見つからなかったので、今度は睡眠時無呼吸の検査もした。その結果は、近々聞いてくるが、睡眠に関する症状も老化に伴う悩みの一つと言っていい。そうした故障を幾つか抱えて、薬で微調整しながら、日々を何とかやり過ごしている。それは若い頃のように決して軽やかと言うわけには行かない。深い雪道を、雪をかき分け、一歩一歩踏みしめながら歩いているような日々である。ただし、これらの日々もいつか終る時が来ると思うと、ただ漫然と過ごすのはもったいない気がする。こうした日々をどう過ごして行くか。

◆人生の終盤に向かって続く手探り
 昔、「閑に耐え、煩に耐え、もって大事をなすべし」という箴言を読んだ記憶があるが、今は「閑に耐える」ことが大事。退屈に耐えながら、ゆっくりと、しかし一歩一歩を噛みしめるように日々を送ることかも知れない。最近読んだ本に、坂本龍一の最後の日々を綴った「ぼくはあと何回、満月をみるだろう」がある。癌を発症してからも、治療を続けながら精力的にアーティストとしての活動を続けて行く。2年前に71歳で亡くなった坂本は、それこそ何千人分の一生を送った人だが、平和や脱原発、地球温暖化への警告、被災地支援などの軸も貫いた人だった。

 いのちのゆくえが気になる春。その花の季節もあっという間に過ぎて、初夏の陽気になった。そんな季節の巡りの中で、私の方は、若い世代から元気を貰いながら、気負うこともなく淡々と、一日一日を噛みしめながら、人生の最期に向かって手探りして行く。同時に、80歳を機に「メディアの風」をどうするか。「日めくり」はともかく、コラムの方をどのように店じまいするのかについては、まだ答えが見つかっていない。前回のコラムのようにAIを上手く使うと、もう少し続けられるような気もするが、これも手探りしながら、あれこれ模索してみたい。