今日の毎日新聞朝刊で、政治部副部長が「報道も変わらなければ」という囲み記事を書いている。民主党になってからの変革に、政治記者たちもようやく今までのやり方を変えなければと気づいたようだ。
「これまで、政治も官僚も政策の見直しについて責任を取ってこなかった。民主党はその責任を負うと言っている。メディアもともに責任を負う意識改革が必要ではないか。」
「官僚の描くシナリオを超え、記者ひとりひとりが国のあり方や政策の方向性を考える。その努力なしに民主党政権の政治主導を検証するのは困難だろう。政治は変わった。報道も変わらなければならない。」というのである。
本当に変われるか?
新聞週間にちなんだ特集記事らしく、殊勝でもっともな意見である。しかし、その意味するところが十分現場で咀嚼されて、具体的な取材態度や記事になって現れるにはまだまだ時間がかかりそうだ。
というのも、変化が現れるには、(ここにも書いてある通り)記者クラブなどに頼らずに情報を集め、またその一つ一つのテーマについて、「歴史的な経緯はどうだったのか、世界的にはどのようになっているか、未来的にはどうなるのが理想なのか」といった広い視点で自らも勉強していなければならないからだ。
その上でなければ、「新しい政策の本質を理解し、その是非を考える材料を読者に提供するのが我々の責務だ。」(記事)とはならない。
夕刊の一面トップ記事
そして、この日の夕刊の一面トップ。「やっぱり官僚頼み」という大きな見出しが躍っている。タイトルだけ見ると大方の読者は、民主党もやっぱり駄目か、という気になる。 しかし、よく読むと国会での相手党の質問取りを官僚に頼んだということ、だけ。それも「民主党はこれを議員の政務官が行うことを検討しているが」ということで、民主党はまだ「政務官が行うのに決めた」と言ったわけではないらしい。
決めてもいないことを先回りして、「政治主導」という建前からして官僚に質問取りをやらせるのはおかしいと、記者が勝手に思っているだけなのだ。しかも、この記事はそう自分が思っているということを一切表に出さない。
記事は、官僚に質問を取らせたら、民主党も(昔の自民党にように)「答弁も官僚の書いたものを読んでいた」ようになる、という、自民党時代と変わらぬことが起きるはずという前提で書かれている。民主党がこれだけ官僚主導打破を唱え、様々な変革を行おうとしているときに、その本質を理解しようとしない。
官僚は使えばいい
さらに、民主党が質問取りを官僚にやらせる理由が、政務次官が今は大変に忙しくて手が回らない状況だから、というのであれば、何でこれが「やっぱり官僚頼み」という大見出しになるのだろうか。
理想的には、国会答弁のすべての事務を政治家がやるべきだというのはあるだろうが、理想がすぐにも実現するならこんな簡単なことはない。政治家の手が回らない時に、それを官僚が手伝ってはいけない法律でもあるのだろうか。
素直に考えれば、質問取りくらい、官僚にやらせればいいではないかと思う。あるいは、(民主党はしないかもしれないが)答弁の下書きだって書かせてもいいではないかとも思う。 政治家が各々のテーマについて、基本方針を明確に指示していれば、頭のいい官僚はその線に沿って答案を書く。骨抜きを図ろうとしたらそれを権限を行使して、直せばいいだけの話。
今までは方針が明確でなかったり、族議員らの圧力の中で身動きがとれず、官僚に足元を見られていただけなのだ。民主党はそこを変えようとしている。 問題は、大臣がそれを自分の考えで直し、自分の言葉で答えられるかどうか、だと思う。それができないときにこそ、この見出しを使うべきではないか。
大事なことを熟慮して伝えよ ようするに、この記事は「官僚が質問取りに行くことになった」という情報を聞きつけ、自民党幹事長の話まで動員して膨らませて、「口では政治主導と言っているけど、民主党は口ばかりだ」と思わせる記事に仕立てている。
その一方で、この記事は「質問取りとは具体的にどういうことをやるのか」、「質問取りはなぜ必要なのか」というような国会慣習にかかわる素朴な疑問も素通りしている。一般市民には分からない。狭い永田町界隈の感覚で書かれた不親切な記事と言わざるを得ない。
記者は一面トップで「やった!」と思っているだろうが、こうした瑣末な記事が連日大げさに報道されて、徐々に政治不信を増大させていく。そしてメディアもいつか見放されてしまう。
今は、予算をどうするかの大事な時、概算要求が出るという日に、国民の立場に立って「民主党は何を目指しているのか、それは国民にとってどうなのか」を伝えずに、こんな記事が一面トップでは、「報道も変わらなければ」というのも空しく聞こえる。
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