時代の中で、あるいは社会の中で、「言葉が力を持つ」と言うことはどういうことなのだろう。「言葉が時代を動かす」、あるいは「言葉が社会を動かす」と言い換えてもいい。端的に言って、ジャーナリズムは社会や時代と向き合い、時にはそれを動かすような、「力のある言葉」を捜すべきだ、というのが私の言いたいことだ。
しかし、力のある言葉は何もジャーナリズムの専売特許ではない。過去にも、いろんな人間が時代や社会を視野に入れ、それを動かすような「力のある言葉」を発してきた。そうした種々の言葉の中で、ジャーナリズムが目指すべき「力のある言葉」とはどういう類のものなのだろうか、と言うのが今回考えたいテーマである。
というのも、今、マスメディアからは言葉が毎日洪水のようにあふれ出して来るが、私たち市民の指針となるような、真にジャーナリズムの存在意義を示す言葉が果たしてどのくらいあるのか疑問に思うからだ。
ちなみにここでいう「時代」とは、自分が生きている今を、歴史的認識(時間と方向性)の中でとらえたものであり、同時にこれだけ世界が狭くなってくると単に日本という場だけではなく、時には地球的視野でとらえることも必要になってくるだろう。
それに比べて「社会」とは、殆ど現在の日本と同義である。まあ、極めて感覚的な表現だが、日本という場に限って言えば、社会が動いて、かつ何らかの歴史的方向性を持ってくれば、やがて時代も動くことになる。
◆社会を動かす政治の言葉
さて、そういう時代や社会を動かす言葉は、過去いくつかの顔を持ってきた。政治的なキャッチフレーズもその一つである。戦時中の「大東亜共栄圏」、「欲しがりません、勝つまでは」、近年では、池田首相の「所得倍増計画」、中曽根首相の「戦後日本の清算」などなど、権力はその時代の大衆の心に訴え、自分たちの考える方向に社会を動かすために言葉を作ってきた。
最近では、「自民党をぶっ壊す」、「構造改革なくして景気回復なし」などと言い、ワンフレーズ・ポリティックスと揶揄されながらも、キャッチフレーズ作りが得意な小泉首相のような人もいる。
政治はその良し悪し、成功不成功は別として、時代や社会に寄り添い、それを動かすような、力のある言葉を常に密かに捜している。
◆ジャーナリズムに期待する言葉とは
問題はジャーナリズムである。冒頭で書いたように、ジャーナリズムも社会や時代と向き合い、時にはそれを動かすような、「力のある言葉」を捜すべきだ、と私は思う。では、ジャーナリズムが探すべき「力のある言葉」とはどんなものなのだろうか。どんな条件を備えているべきなのだろうか。
まず、事象の本質を突く言葉である。それは豆腐のにがりのように、混沌とした時代のカオスを一つの言葉に凝縮させたものである。事象の背後に隠れて漠然としか見えなかった本質をつかみ出し私たちに明瞭に見せてくれるものである。
その言葉は、私たちがどのような時代に生きているのか、世界はどこへ向おうとしているのか、私たちがどのような世界観、価値観を持つべきなのか、を知らせるものでなければならない。こうしたことを大衆に知らせてくれることこそ、市民がジャーナリズムに期待するものであり、言葉が力を持つという真の意味だと私は思う。
そしてまた、そのようにして得られた言葉は、先に書いた政治の言葉に拮抗する力を持つものでなくてはならない。政治がプロパガンダ、アジテーション、ポピュリズム、偏狭なナショナリズムの言葉を発し始めたとき、それを押しとどめる力をもたなければならない。
また、その力は、時代認識、状況認識の的確さ、取るべきスタンスと目指す方向性の正しさ、そして明確な表現を源泉としなければならない。
◆「力のある言葉」を見つけ出す
第二次大戦前のヨーロッパ、戦前の日本でも、幾多のジャーナリストがそうした珠玉のような言葉を発しながらも結局時代に押しつぶされ、世界大戦の悲劇を押しとどめることは出来なかったという例を読んだことがある(「燃え続けた20世紀」)。
それは確かに悲劇ではあったが、戦うべき対象が明確で強大なときにこそ、ジャーナリズムはその輝きを増す。
また、言葉が事象の本質を突くためには、かの安岡正篤氏がいうように、物事を歴史的、多面的、根本的に見なければならないなど、そこへ向けての方法論の議論もある。ジャーナリズムは過去の例に学びながら、常に自らを研鑽して来たが、この辺は、おいおいこのコラムでも検討していきたい。
ジャーナリズムがメッセージを載せるメディアは、新聞、テレビ、インターネットと、この百年間に、大きく変化してきた。しかし、その時々の時代と向き合い、「力のある言葉」を捜す作業は今も変わっていないのではないか。
最近は驚くような事象が多発し、マスメディアに情報が溢れる中で、事象の本質を突く言葉を探すのが追いつかない現状である。しかし、ジャーナリズムには、是非以上に書いたような「力のある言葉」を見出し発信してもらいたいと思う。これが要望であり、密かにこの「メディアの風」にも課したい課題である。
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